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拉致被害者の使命を考える

大きな絵を描こう
03 /03 2020
拉致被害者の使命を考える

「日本の国のために、このように犠牲になって苦しみ、
また亡くなったかもしれない若い人たちの心の内を思ってください。
私たちが一生けん命、力を合わせ、戦ってきたこのことが
政治の中の大変な問題であることを暴露しました。
このことは、日本にとっても北朝鮮にとっても大事なことです。
そのことの為にめぐみは犠牲になり、
使命を果たしたのではないかと信じています。
人はいずれ死んでいきます。
本当に濃厚な足跡を残していったのではないか、
そう思うことでこれからもがんばってまいります」2002.9.17

2002年小泉総理大臣(当時)の訪朝により、5名生存、8名死亡の
報告がなされた後の横田早紀江さんの発言の抜粋です。
ここで早紀江さんは、めぐみさんをはじめとする
拉致被害者の使命について触れました。
このことについて少し考えてみたいと思います。

人は何の為に生まれてくるのか?
答えは人の数ほどあるでしょう。
どれが正解であるのかは判りません。
しかし、この世に生を受けた人、人に限らず、動物、植物、
命を与えられた者は、早紀江さんが言うように、
必ずこの世での生を終える時が来ます。

生きている者は必ず死ぬ、これは身分、国籍、性別等を問わず真実です。
生きている時に、どれほどの社会的功績を積み上げようと、
そのようなこととは無縁に穏やかな日々を積み重ねていても、
あるいは、残虐非道な行いを他者に対して行った者であっても
等しく死ぬのです。
拉致被害者だけが、「生存を前提に」と言葉では言っても
死を免れることができる訳ではありません。
このブログでも何度も繰り返しているように、
生存されている方もおられれば、残念ながらお亡くなりになられた方も
いらっしゃるだろうということが真実であろうと思います。

そして人は独りで生きていくことはできません。
誰かと関わりながら、自分でも気づかないうちに
誰かを助け、誰かに助けられて生きていくのです。
喩え、理不尽な出来事に巻き込まれたとしても
その悲しみ、苦しみを吞み込み、乗り越え、あるいは潜り抜けて
1歩でも半歩でも先へ生きていくのです。
長い時間を経て振り返った時に、その理不尽な出来事でさえも
その人の糧となることを知るのです。
そして、その悲劇の中で決して一人ではなかったこと、
支えられたことも知るのです。
だから、二度と繰り返してはならない、この思いは自分だけで十分、
他の人に体験してほしくない、と思い行動する人が出てくるのでしょう。
積み重ねられた悲劇が次の悲劇を防ぐことに繋がるのです。

北朝鮮による拉致。
ある日突然に、日常が断ち切られ、切り離される悲劇。
失踪の理由も判らず、何十年も自分を責め続けた被害者家族。
拉致されたということが判った時、
何とかして、この事実を知らないでいる人達に知って欲しい、
取り戻すために力を貸して欲しい、と願い家族は街頭に立ったのでしょう。
やがて、国会でも取り上げられ、2002年の小泉訪朝へと繋がっていったのです。

外国の工作員による拉致など誰も想像することはできませんでした。
様々な偶然も重なり、関係者の尽力もあり明るみになったのです。
拉致された人達がいる、と知った時、私も含め多くの国民は
そんなことが本当にあるのだろうか?といぶかり、
しかし、それが事実であると判った時、
北朝鮮に対して恐怖と憎悪の念を抱いたのではないでしょうか。

では、拉致被害者の使命とは、北朝鮮に対する憎悪を掻き立てることである、
と言ってしまってよいのでしょうか?

先に、人が生きていくためには、人を助け、助けられると申しました。
そのことを人が生きていく上での使命、目的であると仮定してみます。
その上で人を憎悪する為、その憎悪を燃料にして徹底的に相手を叩きのめすこと、
それが拉致被害者が教えてくれたことであるとしたら、
何と、虚しいことでしょうか。

救う会やボランティア、被害者家族の話しに心を動かされた人達が、
北朝鮮を憎む、徹底的に叩きのめすことを目的にしてしまったとき、
拉致被害者の使命は矮小なものへと歪められてしまうのではないでしょうか。
人を憎悪し、せん滅することを伝えるためにこの世に生を受け、
そうすることが使命として与えられたと考えたなら、
拉致被害者の生、使命は人を不幸にするためのものになってしまいます。
人が生きる時、人を助け、助けられるという
本来の生の意味からかけ離れたものになってしまいます。

それでは、早紀江さんの言葉にある、
拉致された方々の「使命」とはなんでしょうか。
これはあくまで私見であることをお断りいたしますが、
憎悪を乗り越え、和解することが可能であることを
知り、伝える為ではないかと考えます。

新約聖書ルカによる福音書23章34節
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
イエスが十字架の上から、
自分を磔にし、嘲り嗤う人々について言った言葉です。
憎しみから出た呪いの言葉ではなく、赦す言葉です。
キリスト教では、イエスは神と罪人である人とを和解させる仲介者です。
憎悪から出た言葉ではなく、赦しを示す言葉を
自分を理不尽な目に遭わせた相手に告げる。
私は、拉致被害者はこのような重く、大きな使命を
与えられたのではないかと思っています。

それはもちろん、あくまで個人的な思いです。
一方拉致被害者家族・救う会会員の思いも、彼らが拉致被害者本人でない以上、
個人的なものであり、それぞれ同等のものであることを、確信します。
拉致被害者の使命を「赦し」ととらえるも「憎悪」ととらえるも同等。
ですから問題は、どのとらえ方が拉致被害者・その周辺の人・日朝両国・世界にとって、
よりよい結果・解決につながるか、という話になります。

拉致をし、被害者、その家族の人生を壊した相手である北朝鮮、
かの国、その指導者、国民を憎むことは簡単です。
しかし、憎しみの感情をぶつけ、相手を罵倒するだけでは
話し合いもできません。
拉致被害者を助け出すためには、武力行使は無意味です。
(武力使用が非現実的であることは当ブログ、
「「拉致被害者救出には自衛隊の使用が必要」という人へ」
http://serenityprayer323.blog.fc2.com/blog-entry-44.htmlをお読みください)
交渉で取り返すしかないのです。

その際、相互に過去の出来事を持ちだし、
被害者であることのみを強調し、相手を加害者であると
詰め寄るだけでは、交渉にはなりません。
勿論、交渉ですから駆引きは必要です。
しかし、駆引きと憎悪による感情の発露は別ものです。
拉致被害者が私たちに示してくれたことが
憎悪ではなく、それを乗り越え、人を赦すことが可能であること
と考えるならば、私達は彼らの使命をしっかりと受け止めなければなりません。
北朝鮮を憎悪し、在日韓国・朝鮮人を差別し、罵詈雑言を浴びせ、
「気に入らないなら、日本から出て行け」と叫ぶ、
そのきっかけ、理由が拉致問題であって良いはずはありません。
そのような利用のされ方が拉致被害者の使命であるはずはありません。
それが拉致被害者の使命だ、という人は、
一体その先に何を見、求め、拉致被害者におしつけようとしているのでしょうか?

また、最近拉致問題啓発として、子ども達に拉致問題を知ってもらうという
取り組みが積極的に行われています。
子ども達は純粋に引き離された家族の悲しみ、辛さを想像し、
共感を覚え、一日も早い再会を願っています。
その為にできることをしようと考え、行動する子どももいます。

しかし、現実の拉致の運動はどうでしょうか。
支援団体、家族でさえ、韓国、北朝鮮に対しヘイト紛いの発言をし、
制裁や憲法改正、武力行使を口にしているのです。
北朝鮮に対する負の感情を土台として、憎悪を燃料として投下した時、
その炎は大きくなるばかりでしょう。
大きくなった炎は子ども達をも巻き込み、
自らを焼き尽くすことになるかもしれません。

拉致は大切な人権の問題なのだと言うのであれば、
憎しみの種を撒くことはしてはならないことです。
家族愛を強調しながら、それを取り戻すために、
平和でささやかな関係を断ち切った相手を憎み、
同じような目にあわせようとすることは矛盾した言動である
といえるでしょう。

又、日本と北朝鮮の間を、一部の被害者家族の言う正義と悪との戦いという
二項対立として単純化することもしてはならないことです。
ここで言う正義は日本であり、自分達であるということだろうと思いますが
北朝鮮には彼らの正義があるのです。
夫々が正義を唱え、大義名分を持ちだすなら、
和解や着地点を見出すことはできません。
特に憤りを原動力とした正義を持ちだすなら、
勝つか負けるか、生き残るかせん滅するかの二者択一になってしまうからです。

何をもって解決と言うのかの定義さえ曖昧なまま、
正義は我にありとするなら、相手を完膚なきまでに叩きのめすことになります。
その結果、負けた方には更なる憎悪が残ることになります。
憎悪に憎悪を重ねて行くことが、
拉致被害者に与えられた使命、この世に生を受けた目的であるはずはありません。
助け出すことと相手を憎み、叩きのめすこととは違います。
そこを混同してはなりません。

現状の憎しみを乗り越えて行ける、理不尽なことをした相手を
赦すことができる、和解することができる、
このことを可能にするのは、私達です。
憎しみを植え付け、更に増幅させることが
拉致被害者が私たちに与え、残したことであってはならないのです。
それでは、あまりに悲しく、虚しいことではありませんか。

拉致被害者の生きた証、早紀江さんの言葉を借りるなら
「彼らの残していった濃厚な足跡」が隣国を憎悪することであったなどと、
そのような人生を被害者に与えることを許してはならないのです。
ですから、はっきりと言います。
今の救う会の運動は間違っています。

大学教授という教育者という身分でありながら、
北朝鮮への憎しみを露わにし、日々罵詈雑言を投げつける人達が
拉致の運動の中心にいます。
来る日も来る日も、北朝鮮憎悪という燃料を投下し続ける人達が
先頭にいる運動は、和解とは程遠いものです。
和解などしなくて良い、白黒の決着を付けるのだ、というなら
それは、子ども達を含む多くの国民を巻き込み、
不幸を作り出すことになるでしょう。
拉致被害者の使命、その生の目的を歪め、貶めるものとなります。

拉致問題に関心のある皆様も、「拉致被害者の使命」という観点から、
今一度拉致問題をお考えいただけたならと思います。
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未来に向けて大きな絵を描こう

大きな絵を描こう
07 /03 2018
米朝会談後の話をしてみましょう。

かつて外交官の田中均氏は、
拉致問題一本では北朝鮮との交渉が成り立たないため、
日朝国交正常化という「大きな絵」のなかに拉致問題を位置付けることで、
2002年の小泉訪朝への道を開くことを可能にしました。

それに対して、救う会会長西岡氏は著書で
「「死亡の確実な証拠がない間は、生存を前提として救出にあたるべきだ」という、
「家族会」「救う会」が主張した正論が、
田中局長らの国交正常化交渉を先行させようという陰謀を打ち破った」
と、「正論」「陰謀」という言葉を使ってまで、田中均氏を激しく攻撃しています。
ついでに言うと、以前、拉致被害者家族増元照明氏は
「拉致問題が解決しない責任は誰にあるのか?」と問われて、「小泉元首相」と答えています。
5人帰国の功績が安倍晋三氏一人に集中された経緯については、
リテラの記事で詳しく述べられていますので、是非ご覧下さい。
lite-ra.com/2018/06/post-4074.html
現在の日本がジョージ・オーウェルの『動物農場』そのものであることが、よくわかります。

また、6月12日の米朝会談の翌日、
河野洋平氏は
「国と国との関係も正して、(拉致被害者を)帰してもらう手順を踏まざるを得ない」と、
北朝鮮との国交正常化を優先すべきだとの考えを示しました。

するとその翌日の13日、横田めぐみさんの弟の横田哲也氏はこう言いました。
「河野洋平氏のような見当違いの発言をする人もいるわけなので
それに惑わされないよう、私たちもぶれずに頑張りたい。」

田中均氏・河野洋平氏が国交正常化を行い、
まっとうなコミュニケーションのルートを確立した上での
拉致問題についての交渉を主張しているのに対して、
救う会・家族会は「全拉致被害者の即時一括帰国しか道はない」と主張します。
増元照明氏は「先に国交正常化などしたら、
拉致問題は解決済みのこととされ、
拉致被害者は殺されてしまうかもしれません。」とさえ言っています。
このような理屈がなりたつなら、
北朝鮮はもう何度も「拉致は解決済み」と発表しているのですから、
その時点で拉致被害者は全員殺されている可能性が高い、ということになります。
なぜ全員生きていると断言できるのか、全くもって謎です。

さて、今まで私たちは上のように公表されている(誰でも入手可能な)情報を
もとに文章を組み立ててきました。
それによりある程度の説得力を出すことができたとは考えています。
しかし12日の米朝会談以降は、
まず第一にどのように北朝鮮とコミュニケーションをとるべきか?
ということが具体的に議論されなければならなくなりました。
問われるのは、これから何をなすべきか、という意志です。
しかし大方の「意見」は、
日本側の都合や勝手な思い込みを並べ立てているだけの、
コミュニケーションには相手がいる、ということを無視しているものばかりで、
こういってはなんですが、何もしない気まんまんなことだけは伝わってきます。

通常であれば、田中均氏・河野洋平氏の路線がごく常識的な行き方です。
しかし、本ブログで再三述べているように、
日本政府・救う会・家族会にとって「全拉致被害者の即時一括帰国」
というフェイクの目標は、
彼らの好戦的な真の目標達成のためには、
なんとしてでも貫き通さないといけないものです。
そのためだったら何でもします。どんな無理も通します。

好戦的と言えば、拉致関係者の中には、何と米朝会談以降(!)に、
拉致被害者救出のために自衛隊を派遣せよとの、
元自衛隊員らの署名を集めている人もいるくらいです。
http://araki.way-nifty.com/araki/2018/06/post-ace6.html
すごいですね。以前の東京都知事選でお馴染みの人の名もあります。

ただでさえ乏しい北朝鮮への窓口をわざわざ潰していくようなこの状態では、
拉致問題の解決など夢のまた夢です。
一体どうすればよいのでしょうか?
そしてこんな文章を読まされて、皆さんはどうすればいいのでしょうか?

ここからは本ブログの管理人、私たちの個人的な主張になります。
どのように解釈するかは皆さんの自由です。

最初に田中均氏の話の中で「大きい絵」というフレーズがありました。
私たちもまずは、「大きな絵」の中に拉致問題を位置付けることを主張したいと思います。

しかし16年前の日朝国交正常化という絵では、
北朝鮮を交渉のテーブルに引き出すには、
現時点でいささか北朝鮮サイドにとって、メリットが乏しいように思われます。
なにしろ16年前は、軒並み東側諸国が崩壊し、
北朝鮮の体制がまさしく絶体絶命の窮地に陥っていた訳ですが、
現在はほとんどそのようなプレッシャーはありません。

その上最大の強敵アメリカのトランプ大統領と、握手までしているのです。
安倍総理が「日朝会談?前のめりになったらいけないよ。まあいつかできればいいね」
という態度をとっていれば、日朝会談など絶対に開かれるはずはありません。
安倍総理の思惑通りです。
(どのような思惑であるかは、本ブログの「新しい視点:Ⅰ」にある通りです。)
といってそれで終わらせる訳にはいきません。

では現在、北朝鮮サイドにとってメリットのある「大きな絵」とは何か?
ここで私たちは「東アジア地域における平和・安定」という「大きな絵」を提案したいと思います。

なあんだ。きれいごとだな。
一体それが北朝鮮にとってのメリットになるのか?
「北朝鮮は戦争大好き国家である」という
マインド・コントロールを多かれ少なかれかけられている人(私達もそうでした)には
納得し難いかもしれません。

しかし北朝鮮は、確かに核を振り回して威嚇的な言動をこれまで取ってきましたが、
「属国になれ」「領土をよこせ」「金をよこせ」「誰それを引き渡せ」「誰それを殺せ」
などという戦争目的を表明したことはないはずです。
よく「ソウルを火の海にする」などといっていましたが、
それはブラフであり、本来「~しないと、ソウルを火の海にする」というように、
戦争目的に連なるべきものです。
つまり今まで、意図的に目的をはっきりさせないため、
ブラフを繰り返してきたのです。

なぜならその目的は、
内外共に極めて不安定な「北朝鮮の体制の護持」、
大日本帝国的な言い方をすれば「国体の護持」にあるからです。
体制を護持する力量があることを、内外にデモンストレーションすること。
それが全てとは言いませんが、その側面はかなり大きいはずです。
何しろ「国体の護持」というのは大変なもので、
そのために何十万人の日本人が死んだか、
第二次大戦に詳しい人はよくご存じと思います。
それはもう大変なことなのです。

金正恩が戦っているのは特定の国や人ではなく、
この不安定さであると、私たちは考えます。

だからこそ、現時点での
「核をちらつかせて、とりあえず握手をしました、という不安定な関係」から、
「東アジア地域を構成する正式な一員、という安定した関係」へのステップアップ、
というメリットを示せるようなビジョンづくりを、まず行うべきです。

そしてそのビジョンづくりには当然、
日朝国交正常化は必要ですが、それだけでは十分ではなく、
北朝鮮を国際社会に受け入れるための明確なハードル(ここで核の問題、
そして拉致問題を含めた人権問題が言及されなければなりません)について、
米韓中などの各国とのすり合わせが必要となります。
そしてそれを可能にするためには、国際社会において各国が共有し得る、
普遍的な道義性が必要とされます。(本音がどうであれ)

その際従来の
「何が何でも北朝鮮を孤立させる」(孤立すれば安定しません)へのアンチテーゼとして、
「北朝鮮をどうやって国際社会に受け入れられる国へと導くか」
というプラス志向の考え方が必要だと思います。

そこで、特に拉致問題については、双方受け入れ可能な解決案が求められ、
「過去の罪は罪として、悲劇は悲劇として、二度と繰り返されることがないように、
決して忘れず、共に背負い続けていこう」という前提から、
「二度と拉致や侵略、
敵対的な工作活動や植民地支配などが起こることがないように、
永続的な友好関係を築いていけるよう、共に努力していきましょう」
というメッセージを、有効なかたちで打ち出していく事ができたならば、
それは金正恩にとっても悪い話ではないように思えます。

「ふざけるな!拉致問題では北朝鮮が一方的な加害者で、
こちらは被害者だぞ。なんでそんなことをしてやらなければならないのだ!」
と考える人は右翼に限らず大勢いらっしゃるでしょう。
最近やたらと北朝鮮に何兆円か払わないといけなくなるぞ!
との記事もあちこちででてきています。そりゃあ、払いたくありませんよね。

しかし考えてみてください。
日本と北朝鮮にとって、共通の利益はなんでしょうか。
日本にとっては二度と拉致が起こらないこと、
北朝鮮にとっては二度と拉致をする必要がなくなること、
ではないですか。
そのための努力こそが、私たちにとって行うに足る努力ではないですか。

拉致被害者も北朝鮮の非を鳴らし、
圧力をかけ、屈服させた上で取り戻す(これが安倍・救う会・家族会の主張です)場合は、
仮に実現できたとして、北朝鮮には激しい屈辱感を与え、
その恨みは後々に引き継がれることになります。
再び拉致や工作活動をされるかもしれません。
二度と拉致が起こらないように、日本の沿海にびっしり防壁をつくるのですか?
そのために大増税をされたとして、納得できるでしょうか?

だからこそ拉致被害者は、堂々と、永続的な友好関係のシンボルとして、
双方のメンツがたつやり方で、返してもらわなければなりません。
仮に生存者がいなかった場合(本文で述べているように、その際の償いはまた別な話です)は、
そのシンボルは、両国において、
拉致被害者を愛した人々の相互交流というかたちをとることになるかも知れません。
その時は、ウンギョンさんと横田夫妻の絆が、
恩讐を超えた友好の懸け橋になり得るかもしれません。

よく救う会・家族会の人が言うように、ウンギョンさんはめぐみさんではありません。
そんなことは誰だって分かっています。
だからといって、明白な血縁関係のあるウンギョンさんと横田夫妻の絆を
無理矢理断ち切ることが許されるのか。
許されない、と私たちは考えます。皆さんはどう思いますか?

和解など頭の片隅にもなく、憎しみを煽る事しか考えていない人たち。
その人たちと一般の国民である皆さんの間に共通の利益はあるでしょうか?
共有できる感情はあるでしょうか?
ないのではありませんか。

自国の国家エゴむき出しでいたならば、
いくら諸外国を訪問して、お金を配ってまわったとしても、
協力を得られる可能性はないでしょう。実際得られませんでした。
東アジア地域の平和・安定という共通の利益・共有できる感情を、
説得力のあるかたちで鮮明に打ち出すことができれば、全く話は違ってきます。
疑心暗鬼な関係ではなく、信頼関係を築くのです。
その過程で仮に何兆円かどうかは知りませんが、
お金がかかることになったとしても、米朝で話し合った結果として、
請求書が突き付けられ、感謝されることもなくいやいや払うのと、
自分達の意思に基づいたプロセスの中で払うのでは、まるっきり結果は違いますし、
周囲の評価も真逆になるでしょう。

世界的に共感をえられるものに平和・安定以外になにがあるでしょうか。
拉致問題解決のために戦争を!などという考えには、
アメリカですら同調してもらえません。というより、
そんな意見が白昼堂々まかり通っている現在の日本は、
拉致問題を悪用した長年のマインド・コントロールによって、
相当異常な国になっていると言えます。
そろそろ我が身を振り返ってもみてもよい頃合いです。

「日本が拉致を持ち出すので話がまとまらない」ではなく、
「日本が拉致をはじめとする人権問題について、
互いに受け入れやすいところから、
段階的に克服していくためのプロセスを提案してくれるようになったおかげで、
話がどんどんまとまるようになった」となった方がはるかに良くありませんか?

これから何をなすべきか?
「米朝間に不協和の種があったら大喜び。
できるだけ北朝鮮を孤立させる」方向に行きますか?
安倍総理がいる限りは多少のぶれはあってもこの方向です。
「北朝鮮を国際社会に受け入れられる方向に導く」方向に行きますか?
どちらに行くかによって、私たちの未来は大きく変わります。

争いか平和か。拉致問題の行方により左右されます。
だからこそ、平和を愛する人たちに拉致問題に関心をもってほしかったのです。
訳もなく国会前で拉致問題のチラシを配っていたのではありません。
拉致問題は保守の人たちのおもちゃではありません。
敢えて言わせてもらえば、安倍信者になった拉致被害者家族の問題でもありません。
私たちの、更には私たちの子孫の問題なのです。

だからこそ現在拉致問題を独占している、
憎しみに満ちた人々の描く、嘘まみれのエゴ丸出しの小さな絵に対して、
ただ非難・揶揄するだけではだめなのです。
私たち自身の大きな絵を描かなければ!
この文で描かれた絵にとらわれる必要はありません。
自分達で描いた大きな絵こそが、私たちの未来を切り開くのです。

妙に楽天的なようですが、逆に言うと、
自分達で大きな絵を描かなければ、
誰かの描いた絵に引きずられてしまうのです。
それがたとえ全く承服しがたいデタラメな絵だったとしても。

ただの一般人の私たちに絵なんか描けないよ。下手すぎて恥ずかしいよ。
絵はプロの画家(=専門家・官僚・政治家)が、描くものだろう。
プロに任せるよ。自分の仕事で忙しいんだ。
大部分の大人はそう言うと思います。
しかし子供のころを思い出してください。
うまい下手関係なく、
真っ白な画用紙にクレヨンで大きな絵を描きませんでしたか?
それは見るに堪えない絵だったでしょうか?

つい先日、沖縄の慰霊式典で14歳の少女の読んだ詩が、人々を感動させました。
もちろん彼女はプロの詩人ではありません。
プロでないからなんでしょうか!
大事なのはそこにこめられた思いです。
テクニックの問題ではありません。人間の魂の問題です。

権威の有無にかかわらず、自分の頭で考えましょう。
そして大きな絵を描きましょう。
自分の意思で、自分の生を生きるために。

大きな絵を描いた人たち ①

大きな絵を描こう
07 /03 2018
大きな絵を描くことについて色々と語りましたが、
言いたいことを全て入れるとどうしても長くなりすぎるので、
稿を改めて、視点を代えて続けることに致します。

拉致問題とは一旦離れて、
それぞれの問題で大きな絵を描いた人たちの実例を踏まえた話をすることにします。

① ケヴィン法について
「フード・インク」という映画を観たことはありますか?
2008年のアメリカ映画で、
アメリカの食品産業に潜む問題点に切り込んだドキュメンタリー映画です。

その中で、O-157に汚染されたハンバーガーを食べたため死んだ、
2歳の少年ケヴィンに関わるエピソードがあります。
母親は嘆きます。悲しみます。
それでどうしたか?

そこでケヴィン法です。
二度とこのような悲劇が起きないように、
汚染された肉を生産した工場を閉鎖できる
「ケヴィン法」の制定を求めて立ち上がったのです。
母親は言います。
「ケヴィンの話をするのはつらい。
でも二度と同じ悲劇を繰り返さないために、外に出て語るしか方法はない」
「息子が亡くなって間もなく7年になる。
企業に求めるのは
「申し訳ない。我々の製品で息子さんが亡くなった。
二度とこういうことは起こさない。」その言葉だけ。彼らは口を閉ざす。」

この母親は特別に利他的な聖女でしょうか?
そんなことはないと思います。こうするしか、
息子の理不尽な死という現実と向き合うことができなかったのだと思います。
もちろん悲劇にあった人が、全員このような行動をする義務はありません。
しかし、息子の名を冠した法律が制定されて、
今後の悲劇が食い止められたなら、息子の死は無駄ではなかった、
とわずかなりとも慰めを得ることができるのではないでしょうか。

一方、拉致問題はどうでしょう。
拉致被害者に与えられた役目・使命はなんでしょうか?
北朝鮮に対する果てしない憎しみを日本人に与えることでしょうか?
被害者がその人生と命を懸けて訴えていることが、
主権侵害による日本国の手薄な防衛、
故に憲法を改正して戦争ができる国にしよう、
ということでは、あまりに悲しいでしょう。
北朝鮮が極悪非道な国家なので、永遠に許さないという憎悪を煽動することでは
あまりに虚しいと言わざるを得ません。
国内における外国の工作活動による国民の被害を繰り返さない法整備、
外交政策による友好関係の構築、と言った建設的な方向へ向かわなければ、
被害者、被害者の家族の悲劇は、悲劇のままで更なる悲しみを生むだけです。

ケヴィン君の命と引き換えに、2度と同じ悲劇を繰り返さないという成果を
生んだのだとしたら、その死は決して無駄ではなかったことになります。
拉致被害者に与えられた過酷ではあっても
尊い役目・使命を皆さんも考えてみてください。

北朝鮮による拉致被害者は、全員生きていることになっています。
といって何も進展がある訳でもなく、
政府はただ根拠もなく「生きている」「必ず取り戻す」と言っているだけ。
家族は何ができるでしょう。
署名活動?講演?それでなにか手ごたえを感じられるのでしょうか?
喪失感を癒すことができるのでしょうか?
「一生懸命待っている」・・・言っていて何か違和感を感じませんか?

北朝鮮は「拉致は解決済み」と言います。
北の言い分を「仮に」そのまま受け入れるとして、
北に渡った人がいたこと、その人たちが北で死んだことは否定していません。
自分の意思で北に渡ったのだ、自己責任だ、
と必ず言うでしょうが、家族と連絡がとれず、
死に目にも会えなかった、という問題は残ります。

全員死亡したから「拉致は解決」という理屈はありません。
全員生きていても、全員死んでいても、
拉致問題はこれから解決しなければならないのです。
だから真実を知る必要があります。

生死を確認することもなく、
「拉致被害者救出のためには、憲法9条の廃止が必要だ!」
などという運動をする有本明弘氏(拉致被害者有本恵子さんの父)の姿に
皆さんは共感できますか?
ちなみに憲法9条を廃止しなくても、「解釈」を代えるだけで、
自衛隊は海外に派遣できるようになっています。
実際日本人とは何のかかわりもないスーダンには自衛隊を派遣しています。

安倍総理が本気で拉致被害者が生きていることを確信し、
(水面下で)情報機関を駆使して、拉致被害者全員の所在を掴んでいるのなら、
憲法9条を廃止しなくても、特殊部隊なりをつかっての救出活動は
「やろうと思えば」できるのです。
ただやっていないだけです。
有本氏こそ日本政府を、安倍総理を批判する急先鋒であるべきですが、
全くそうではありません。
真逆です。ただ彼の信奉者と共に、日本国憲法を攻撃します。

有本氏が何を考え何をしようと、
それに矛盾があろうと、彼の自由ではありますが、
彼の描く絵の評価は私たち自身が行うことです。
「拉致被害者家族を批判するとは!」と怒られる筋合いはありません。
私たちの自由です。
ケヴィン君のお母さんの描く絵と、有本氏の描く絵。
どちらが感動的ですか?
どちらが共感できますか?

大きな絵を描いた人たち ②

大きな絵を描こう
07 /03 2018
② ウッドロー・ウィルソン
ウッドロー・ウィルソンは第28代アメリカ大統領です。
一般的には理想主義者と言われています。

第一次世界大戦中の1918年1月8日、
議会に臨んで14か条の提案を発表しました。
その内容は、
「ドイツ軍国主義は自由を願うロシア人民を征服しようとしており、
今こそ平和を愛する諸国民が戦いの目的を声明すべき時だ。
その一般的目的(講和条件)は秘密外交の廃止、
公海の自由、軍縮、国際通商の障壁の除去、
植民地要求の公平な解決、
「大国・小国に等しく政治的独立と領土保全を保障する」国際連盟の設立・・・」
(志邨晃佑「ウィルソン新世界秩序をかかげて」より)
確かに理想主義的です。
しかしウィルソンは必ずしも、
理想主義者だから理想主義的な提案をしたのではありません。

1917年11月8日にレーニンが発表した「平和に関する布告」
(無賠償・無併合・民族自決に基づく即時講和を提案)
へのカウンターとしての意味も大きかったのです。
そういう意味では、広い意味で現実主義的であったのです。

もちろん言葉通りに物事が進まなかったことは、
世界史について少しでも勉強した方にはご承知の通りです。
しかしその後の100年の間、
アメリカとソ連(ロシア)を中心として世界が動いていったのは、否定できない事実です。
責任があるものは理想を語らなければなりません。
そうでなければいくら大きな国力をもっていても支持されることはありません。

14か条の提案から奇しくも100年が経過しています。
現在トランプ大統領はアメリカファーストを叫びます。
そして世界中で最もトランプ大統領を「英雄視」する日本の一部の人たちは
「軍事力が全てだ」
「強い軍事力を持つアメリカについていくしかないのだ」
「拉致被害者は世界最強のアメリカ軍に取り戻してもらうしかないのだ」
(6月12日以降はさすがに言わなくなったか?)
と言います。

100年は一つの節目です。
ウィルソン主義・レーニン主義を未だそのまま信奉している人はあまりいないでしょう。
しかしそれに変わるスローガンが、「軍事力が全て」でいいのでしょうか?
これから100年世界はそれでいっていいのでしょうか?

100年を待たずに世界は滅ぶでしょう。

さて北朝鮮は先軍政治の国です。
先軍政治とは「すべてにおいて軍事を優先し、
朝鮮人民軍を社会主義建設の主力とみなす政治思想である。」(ウィキペディアより)そうです。
そのような国相手に、よくぞ圧力一辺倒の行動をとってきたものと、眩暈がする思いです。
拉致問題を解決したくなくて、そのような行動をとったとしか思えません。

「未来に向けて大きな絵を描きましょう」を読んで、
理想主義的だ、北朝鮮に阿りすぎだ、
と思った方は大勢いるのではないかと思います。
私だって何も、金正恩が「すばらしい!
あなた方の言うように憎しみを超えて、
私たちの共存できる未来を一緒に築いていこうではありませんか!」
と答えるとは、全く思っていません。

逆に金正恩がそんなことを言わないからこそ、
「先に」理想を語らなければならないのです。
たとえ本気でそう思っていなかったとしても。
「先に」大きな絵を描いて、そのイメージを世界に広めること。
そうすれば、相手が受け入れてくれなくても、
周りは「こんなにいい提案をなぜ受け入れないのか。
受け入れないのは何か後ろ暗いことがあるからではないか」
という感想を持ち、それが見えざるプレッシャーになるのです。

強大な軍事力をもっていれば、核兵器をもっていれば、
何でもできるのなら、世界中の国がアメリカに土下座するはずですが、
そうはなっていません。
土下座しているのは日本だけです。
これからの百年、世界が「軍事力が全て」で回るはずはないのです。

1918年以降の人類の歩みを全否定する人たちは「現実主義者」ではありません。
きれいごとを語る者が「現実主義者」なのです。
もちろん現実離れしたきれいごとではだめなのですが・・・

大きな絵を描いた人たち ③

大きな絵を描こう
07 /03 2018
③ シン・ドンヒョク(申東赫)
シン・ドンヒョクと言われて、誰かすぐに分かる人はあまりいないと思います。
北朝鮮の収容所で生まれ育った人で、今は脱北しています。
北朝鮮の収容所から脱出・脱北した人は何人かいますが、
収容所内で「生まれ・育って」脱出・脱北したのは彼一人だけです。
著書に「収容所に生まれた僕は愛を知らない」があり、
ドキュメンタリー映画「北朝鮮強制収容所に生まれて」にも出演して、
インタビューに答えています。
※北朝鮮の収容所についてよく知らない人は韓国映画の「クロッシング」をご覧下さい。

平成26年に、映画「北朝鮮強制収容所に生まれて」
一般公開に先立ちシン・ドンヒョク氏が来日し、
参議院議員会館内でトークが行われたことがありました。
当時まだ救う会会員だった私は、
拉致問題解決のための何らかのヒントが得られないかと聞きにいきました。

彼の話を聞いていて、非常に奇異に感じたことがありました。
それは「これからどうしたいか?」という質問に対して
「できることなら祖国に帰りたい」と答えたのです。
著書を読み、映画をみた後だったので、
「命がけで脱北したのに、なぜあなたをひどく
痛めつけた北朝鮮に帰りたいなどと言うのか?」と疑問を感じたものです。

しかしあれから4年がすぎ、色々なことがあって、今はこう思います。
「できることなら(人権状況が改善され、
住みやすくなった)祖国に帰りたい」ということだったのだろう。
そういえば「今回の来日の目的は映画の紹介のためで、
それを通じて北朝鮮での人権問題についてアピールしたい」と最初に言っていましたが、
「このような非道な政権を軍事力で打倒して欲しい」
とは当然言いませんでした。

自分の経験を通じて人権問題をアピールすることで、
少しでも北朝鮮における人権状況が改善されればいい、
少しでもよい国になるための、きっかけとなればいい。
という「愛国心」あればこそ、
その覚悟があればこその
「祖国に帰りたい」だったのではないでしょうか。
北朝鮮の一般的な人民、国民をどのような人達だと思われますか?
私達と変わらないはずです。
家族がいて、友達がいて、仕事が辛いと思う時があり、
友達や家族との語らいや団らんの時を楽しい、
幸せだと感じる人達のはずです。
もっと、お腹いっぱい食べられたらいい、
監視のない自由にモノを言える社会なら
もっといいのに、と思いながらも、
今のその場所で精いっぱい生きているはずです。
そうした人民の中に
日本から拉致された日本人も家庭を築き、生き、生活しているのです。
帰国者の蓮池薫さんの著書を読めば、そのことは一目瞭然です。

その一方で、全然接点がない話ではありますが、
思い出すことがあります。
いわゆる護憲派の人と話していて、
ふと耳に突き刺さったのですが、
「もしもこのまま日本がダメになるのなら、
コスタリカにでも移住しようかと思う」
というような意味のことを言っていたのです。
「コスタリカは非武装条項をもったいい国」というイメージからの
軽口だったのかもしれませんが、
「そんな覚悟で活動していたのか」と鼻白む思いでした。

その後、参院選・名護市長選・新潟県知事選など、
絶対に負けられない戦いで負けた後に、
「勝ちに等しい負けだった」とか
「この勢いを次につなげよう」と言って
盛り上がっている人たちをみて、寒々とした思いがしたものでした。

ややこじつけめいた言い方をさせて頂きます。
日本はどんどんひどい状況に向かっています。
だから私たちが、そして私たちの子孫が
安心して暮らしていける日本へと、
私たちの力で何としてでも向けなければなりません。
そして、そうすることで、
本来の「私たちの祖国」に帰らなければならないのです。
だからこそ、ほんのわずかであっても、
よりよい方向に向かえるように、全力を注ぐべきであり、
もし敗北したならば、その原因を徹底的に追求し、
二度と敗北しないようにする必要があります。

※先の参院選についての一考察
「参議院選挙は政権選択選挙ではありません。
極端な話しですが、参議院の全議席を野党が占めたとしても
自民党政権であることに変わりはありません。
衆議院で首班指名された者が
内閣総理大臣になるからです。(憲法67条)
そして、法案も参議院で否決された場合で
も衆議院の再可決により成立します。(憲法59条)
しかし、参議院が仮に野党で過半数以上の議席を占有していた場合、
ネジレ国会となります。
参議院で法案60日間議決をしないでいることができるのですが、
次々に法案を審議・成立させたい与党にとって、
60日間のロスは大きいのではないでしょうか。
その60日の間に、国民を説得し、
世論を変えることができるかもしれません。
それまでスムーズに成立していた法案がネジレ現象により、
成立困難、あるいは不成立にすることができる可能性があります。
戦略として、ネジレを作ることを提案しても良かったのです。
そうすればTPP関連法案、カジノ法案、働き方改革関連法案等、
直近の法案全てとは言いませんが、
どれか1つ位は廃案・継続審議にできていたかもしれません。
ネジレ国会というと、以前の「決められない国会」をイメージし、
あるいはさせられて、
「良くないもの」と思われる方もおられるかもしれません。
しかし、上記の法案を見るだけでも、
およそ国民の為になるモノとは言えないものではないでしょうか。
少しでも、法案成立を遅らせる、
国民がもっと考える時間を得るために、
ネジレ現象が必要な場合もあるのです。
そのことを、野党はもっと考え、
国民に訴える必要があったのではないでしょうか。
「野党共闘」で勝った選挙区があった、
小選挙区制度のせいで勝てなかったが善戦した、
ということに満足していて、
次もこの「戦略」でというのでは
あまりにお粗末と言うべきではないでしょうか。
単なる自己満足でしかありません。
議場では、多数決という決まり事があります。
その決まり事(ルール)の中で「勝つ」為には、
どうすれば良いのか、
もっと考える必要があると思います。」

戦略を示さず「コスタリカに移住しようかな」「勝ちに等しい負けだった」
などと言っていれば、それでは次も負けるでしょう。
何が何でもここで踏みとどまるのだ、という意志の欠如は、愛の欠如です。
「愛を知らない」というシン・ドンヒョク氏に愛を学ぶべきです。
それは、絶対に拉致被害者を取り戻す!
そのために全てをトランプ大統領にお任せしよう,
という人たちも同様です。

リベラルだから、保守だから、日本人だから、北朝鮮人だから、といって、
その立場に引きずられ、カテゴリーに囚われて、
地に足のつかないおしゃべりをしていてよいのでしょうか。
自分が生きてきたこと、生きてきて得たこと、学んだことを、
フル活用して、よりよい祖国を、よりよい未来を求めないでどうしますか。

そして自分が生きてきたことを生かすことは、
他人が生きてきたことを生かすことでもあります。
よりよい祖国を求めることはよりよい隣国を求めることでもあります。
だからこそ、飛躍するようですが、
北朝鮮イコール金正恩とばかり考えるべきではありません。
北朝鮮で生きる人、
北朝鮮をよりよい国にすることを求めている人たちのことを、
その人たちの思いを、知らなくてどうしますか。
私たちは北朝鮮に生きる人と、愛を共有しなければなりません。
そうすることによって、
日本国内で、そして北朝鮮で
憎しみを煽る人を無力化することができるでしょう。

そのような日本・北朝鮮を求めませんか?
そのような子供が描く絵のようなイメージを求めませんか?

Serenity Prayer

某県「救う会」(北朝鮮に拉致された日本人を救出する〇〇の会)元幹事。
脱退後に意見の対立から除名されたらしい。(正式な通告はなかった)
ウヨク的思考を経て中立に物事を見て、判断し、発言する方向へ変わる。
中立の立場から今の拉致問題のあり方に疑問を持つ。
拉致問題に限らず、考え方はヒューマニズムに立つ。