拉致被害者の使命を考える
大きな絵を描こう
拉致被害者の使命を考える
「日本の国のために、このように犠牲になって苦しみ、
また亡くなったかもしれない若い人たちの心の内を思ってください。
私たちが一生けん命、力を合わせ、戦ってきたこのことが
政治の中の大変な問題であることを暴露しました。
このことは、日本にとっても北朝鮮にとっても大事なことです。
そのことの為にめぐみは犠牲になり、
使命を果たしたのではないかと信じています。
人はいずれ死んでいきます。
本当に濃厚な足跡を残していったのではないか、
そう思うことでこれからもがんばってまいります」2002.9.17
2002年小泉総理大臣(当時)の訪朝により、5名生存、8名死亡の
報告がなされた後の横田早紀江さんの発言の抜粋です。
ここで早紀江さんは、めぐみさんをはじめとする
拉致被害者の使命について触れました。
このことについて少し考えてみたいと思います。
人は何の為に生まれてくるのか?
答えは人の数ほどあるでしょう。
どれが正解であるのかは判りません。
しかし、この世に生を受けた人、人に限らず、動物、植物、
命を与えられた者は、早紀江さんが言うように、
必ずこの世での生を終える時が来ます。
生きている者は必ず死ぬ、これは身分、国籍、性別等を問わず真実です。
生きている時に、どれほどの社会的功績を積み上げようと、
そのようなこととは無縁に穏やかな日々を積み重ねていても、
あるいは、残虐非道な行いを他者に対して行った者であっても
等しく死ぬのです。
拉致被害者だけが、「生存を前提に」と言葉では言っても
死を免れることができる訳ではありません。
このブログでも何度も繰り返しているように、
生存されている方もおられれば、残念ながらお亡くなりになられた方も
いらっしゃるだろうということが真実であろうと思います。
そして人は独りで生きていくことはできません。
誰かと関わりながら、自分でも気づかないうちに
誰かを助け、誰かに助けられて生きていくのです。
喩え、理不尽な出来事に巻き込まれたとしても
その悲しみ、苦しみを吞み込み、乗り越え、あるいは潜り抜けて
1歩でも半歩でも先へ生きていくのです。
長い時間を経て振り返った時に、その理不尽な出来事でさえも
その人の糧となることを知るのです。
そして、その悲劇の中で決して一人ではなかったこと、
支えられたことも知るのです。
だから、二度と繰り返してはならない、この思いは自分だけで十分、
他の人に体験してほしくない、と思い行動する人が出てくるのでしょう。
積み重ねられた悲劇が次の悲劇を防ぐことに繋がるのです。
北朝鮮による拉致。
ある日突然に、日常が断ち切られ、切り離される悲劇。
失踪の理由も判らず、何十年も自分を責め続けた被害者家族。
拉致されたということが判った時、
何とかして、この事実を知らないでいる人達に知って欲しい、
取り戻すために力を貸して欲しい、と願い家族は街頭に立ったのでしょう。
やがて、国会でも取り上げられ、2002年の小泉訪朝へと繋がっていったのです。
外国の工作員による拉致など誰も想像することはできませんでした。
様々な偶然も重なり、関係者の尽力もあり明るみになったのです。
拉致された人達がいる、と知った時、私も含め多くの国民は
そんなことが本当にあるのだろうか?といぶかり、
しかし、それが事実であると判った時、
北朝鮮に対して恐怖と憎悪の念を抱いたのではないでしょうか。
では、拉致被害者の使命とは、北朝鮮に対する憎悪を掻き立てることである、
と言ってしまってよいのでしょうか?
先に、人が生きていくためには、人を助け、助けられると申しました。
そのことを人が生きていく上での使命、目的であると仮定してみます。
その上で人を憎悪する為、その憎悪を燃料にして徹底的に相手を叩きのめすこと、
それが拉致被害者が教えてくれたことであるとしたら、
何と、虚しいことでしょうか。
救う会やボランティア、被害者家族の話しに心を動かされた人達が、
北朝鮮を憎む、徹底的に叩きのめすことを目的にしてしまったとき、
拉致被害者の使命は矮小なものへと歪められてしまうのではないでしょうか。
人を憎悪し、せん滅することを伝えるためにこの世に生を受け、
そうすることが使命として与えられたと考えたなら、
拉致被害者の生、使命は人を不幸にするためのものになってしまいます。
人が生きる時、人を助け、助けられるという
本来の生の意味からかけ離れたものになってしまいます。
それでは、早紀江さんの言葉にある、
拉致された方々の「使命」とはなんでしょうか。
これはあくまで私見であることをお断りいたしますが、
憎悪を乗り越え、和解することが可能であることを
知り、伝える為ではないかと考えます。
新約聖書ルカによる福音書23章34節
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
イエスが十字架の上から、
自分を磔にし、嘲り嗤う人々について言った言葉です。
憎しみから出た呪いの言葉ではなく、赦す言葉です。
キリスト教では、イエスは神と罪人である人とを和解させる仲介者です。
憎悪から出た言葉ではなく、赦しを示す言葉を
自分を理不尽な目に遭わせた相手に告げる。
私は、拉致被害者はこのような重く、大きな使命を
与えられたのではないかと思っています。
それはもちろん、あくまで個人的な思いです。
一方拉致被害者家族・救う会会員の思いも、彼らが拉致被害者本人でない以上、
個人的なものであり、それぞれ同等のものであることを、確信します。
拉致被害者の使命を「赦し」ととらえるも「憎悪」ととらえるも同等。
ですから問題は、どのとらえ方が拉致被害者・その周辺の人・日朝両国・世界にとって、
よりよい結果・解決につながるか、という話になります。
拉致をし、被害者、その家族の人生を壊した相手である北朝鮮、
かの国、その指導者、国民を憎むことは簡単です。
しかし、憎しみの感情をぶつけ、相手を罵倒するだけでは
話し合いもできません。
拉致被害者を助け出すためには、武力行使は無意味です。
(武力使用が非現実的であることは当ブログ、
「「拉致被害者救出には自衛隊の使用が必要」という人へ」
http://serenityprayer323.blog.fc2.com/blog-entry-44.htmlをお読みください)
交渉で取り返すしかないのです。
その際、相互に過去の出来事を持ちだし、
被害者であることのみを強調し、相手を加害者であると
詰め寄るだけでは、交渉にはなりません。
勿論、交渉ですから駆引きは必要です。
しかし、駆引きと憎悪による感情の発露は別ものです。
拉致被害者が私たちに示してくれたことが
憎悪ではなく、それを乗り越え、人を赦すことが可能であること
と考えるならば、私達は彼らの使命をしっかりと受け止めなければなりません。
北朝鮮を憎悪し、在日韓国・朝鮮人を差別し、罵詈雑言を浴びせ、
「気に入らないなら、日本から出て行け」と叫ぶ、
そのきっかけ、理由が拉致問題であって良いはずはありません。
そのような利用のされ方が拉致被害者の使命であるはずはありません。
それが拉致被害者の使命だ、という人は、
一体その先に何を見、求め、拉致被害者におしつけようとしているのでしょうか?
また、最近拉致問題啓発として、子ども達に拉致問題を知ってもらうという
取り組みが積極的に行われています。
子ども達は純粋に引き離された家族の悲しみ、辛さを想像し、
共感を覚え、一日も早い再会を願っています。
その為にできることをしようと考え、行動する子どももいます。
しかし、現実の拉致の運動はどうでしょうか。
支援団体、家族でさえ、韓国、北朝鮮に対しヘイト紛いの発言をし、
制裁や憲法改正、武力行使を口にしているのです。
北朝鮮に対する負の感情を土台として、憎悪を燃料として投下した時、
その炎は大きくなるばかりでしょう。
大きくなった炎は子ども達をも巻き込み、
自らを焼き尽くすことになるかもしれません。
拉致は大切な人権の問題なのだと言うのであれば、
憎しみの種を撒くことはしてはならないことです。
家族愛を強調しながら、それを取り戻すために、
平和でささやかな関係を断ち切った相手を憎み、
同じような目にあわせようとすることは矛盾した言動である
といえるでしょう。
又、日本と北朝鮮の間を、一部の被害者家族の言う正義と悪との戦いという
二項対立として単純化することもしてはならないことです。
ここで言う正義は日本であり、自分達であるということだろうと思いますが
北朝鮮には彼らの正義があるのです。
夫々が正義を唱え、大義名分を持ちだすなら、
和解や着地点を見出すことはできません。
特に憤りを原動力とした正義を持ちだすなら、
勝つか負けるか、生き残るかせん滅するかの二者択一になってしまうからです。
何をもって解決と言うのかの定義さえ曖昧なまま、
正義は我にありとするなら、相手を完膚なきまでに叩きのめすことになります。
その結果、負けた方には更なる憎悪が残ることになります。
憎悪に憎悪を重ねて行くことが、
拉致被害者に与えられた使命、この世に生を受けた目的であるはずはありません。
助け出すことと相手を憎み、叩きのめすこととは違います。
そこを混同してはなりません。
現状の憎しみを乗り越えて行ける、理不尽なことをした相手を
赦すことができる、和解することができる、
このことを可能にするのは、私達です。
憎しみを植え付け、更に増幅させることが
拉致被害者が私たちに与え、残したことであってはならないのです。
それでは、あまりに悲しく、虚しいことではありませんか。
拉致被害者の生きた証、早紀江さんの言葉を借りるなら
「彼らの残していった濃厚な足跡」が隣国を憎悪することであったなどと、
そのような人生を被害者に与えることを許してはならないのです。
ですから、はっきりと言います。
今の救う会の運動は間違っています。
大学教授という教育者という身分でありながら、
北朝鮮への憎しみを露わにし、日々罵詈雑言を投げつける人達が
拉致の運動の中心にいます。
来る日も来る日も、北朝鮮憎悪という燃料を投下し続ける人達が
先頭にいる運動は、和解とは程遠いものです。
和解などしなくて良い、白黒の決着を付けるのだ、というなら
それは、子ども達を含む多くの国民を巻き込み、
不幸を作り出すことになるでしょう。
拉致被害者の使命、その生の目的を歪め、貶めるものとなります。
拉致問題に関心のある皆様も、「拉致被害者の使命」という観点から、
今一度拉致問題をお考えいただけたならと思います。
「日本の国のために、このように犠牲になって苦しみ、
また亡くなったかもしれない若い人たちの心の内を思ってください。
私たちが一生けん命、力を合わせ、戦ってきたこのことが
政治の中の大変な問題であることを暴露しました。
このことは、日本にとっても北朝鮮にとっても大事なことです。
そのことの為にめぐみは犠牲になり、
使命を果たしたのではないかと信じています。
人はいずれ死んでいきます。
本当に濃厚な足跡を残していったのではないか、
そう思うことでこれからもがんばってまいります」2002.9.17
2002年小泉総理大臣(当時)の訪朝により、5名生存、8名死亡の
報告がなされた後の横田早紀江さんの発言の抜粋です。
ここで早紀江さんは、めぐみさんをはじめとする
拉致被害者の使命について触れました。
このことについて少し考えてみたいと思います。
人は何の為に生まれてくるのか?
答えは人の数ほどあるでしょう。
どれが正解であるのかは判りません。
しかし、この世に生を受けた人、人に限らず、動物、植物、
命を与えられた者は、早紀江さんが言うように、
必ずこの世での生を終える時が来ます。
生きている者は必ず死ぬ、これは身分、国籍、性別等を問わず真実です。
生きている時に、どれほどの社会的功績を積み上げようと、
そのようなこととは無縁に穏やかな日々を積み重ねていても、
あるいは、残虐非道な行いを他者に対して行った者であっても
等しく死ぬのです。
拉致被害者だけが、「生存を前提に」と言葉では言っても
死を免れることができる訳ではありません。
このブログでも何度も繰り返しているように、
生存されている方もおられれば、残念ながらお亡くなりになられた方も
いらっしゃるだろうということが真実であろうと思います。
そして人は独りで生きていくことはできません。
誰かと関わりながら、自分でも気づかないうちに
誰かを助け、誰かに助けられて生きていくのです。
喩え、理不尽な出来事に巻き込まれたとしても
その悲しみ、苦しみを吞み込み、乗り越え、あるいは潜り抜けて
1歩でも半歩でも先へ生きていくのです。
長い時間を経て振り返った時に、その理不尽な出来事でさえも
その人の糧となることを知るのです。
そして、その悲劇の中で決して一人ではなかったこと、
支えられたことも知るのです。
だから、二度と繰り返してはならない、この思いは自分だけで十分、
他の人に体験してほしくない、と思い行動する人が出てくるのでしょう。
積み重ねられた悲劇が次の悲劇を防ぐことに繋がるのです。
北朝鮮による拉致。
ある日突然に、日常が断ち切られ、切り離される悲劇。
失踪の理由も判らず、何十年も自分を責め続けた被害者家族。
拉致されたということが判った時、
何とかして、この事実を知らないでいる人達に知って欲しい、
取り戻すために力を貸して欲しい、と願い家族は街頭に立ったのでしょう。
やがて、国会でも取り上げられ、2002年の小泉訪朝へと繋がっていったのです。
外国の工作員による拉致など誰も想像することはできませんでした。
様々な偶然も重なり、関係者の尽力もあり明るみになったのです。
拉致された人達がいる、と知った時、私も含め多くの国民は
そんなことが本当にあるのだろうか?といぶかり、
しかし、それが事実であると判った時、
北朝鮮に対して恐怖と憎悪の念を抱いたのではないでしょうか。
では、拉致被害者の使命とは、北朝鮮に対する憎悪を掻き立てることである、
と言ってしまってよいのでしょうか?
先に、人が生きていくためには、人を助け、助けられると申しました。
そのことを人が生きていく上での使命、目的であると仮定してみます。
その上で人を憎悪する為、その憎悪を燃料にして徹底的に相手を叩きのめすこと、
それが拉致被害者が教えてくれたことであるとしたら、
何と、虚しいことでしょうか。
救う会やボランティア、被害者家族の話しに心を動かされた人達が、
北朝鮮を憎む、徹底的に叩きのめすことを目的にしてしまったとき、
拉致被害者の使命は矮小なものへと歪められてしまうのではないでしょうか。
人を憎悪し、せん滅することを伝えるためにこの世に生を受け、
そうすることが使命として与えられたと考えたなら、
拉致被害者の生、使命は人を不幸にするためのものになってしまいます。
人が生きる時、人を助け、助けられるという
本来の生の意味からかけ離れたものになってしまいます。
それでは、早紀江さんの言葉にある、
拉致された方々の「使命」とはなんでしょうか。
これはあくまで私見であることをお断りいたしますが、
憎悪を乗り越え、和解することが可能であることを
知り、伝える為ではないかと考えます。
新約聖書ルカによる福音書23章34節
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
イエスが十字架の上から、
自分を磔にし、嘲り嗤う人々について言った言葉です。
憎しみから出た呪いの言葉ではなく、赦す言葉です。
キリスト教では、イエスは神と罪人である人とを和解させる仲介者です。
憎悪から出た言葉ではなく、赦しを示す言葉を
自分を理不尽な目に遭わせた相手に告げる。
私は、拉致被害者はこのような重く、大きな使命を
与えられたのではないかと思っています。
それはもちろん、あくまで個人的な思いです。
一方拉致被害者家族・救う会会員の思いも、彼らが拉致被害者本人でない以上、
個人的なものであり、それぞれ同等のものであることを、確信します。
拉致被害者の使命を「赦し」ととらえるも「憎悪」ととらえるも同等。
ですから問題は、どのとらえ方が拉致被害者・その周辺の人・日朝両国・世界にとって、
よりよい結果・解決につながるか、という話になります。
拉致をし、被害者、その家族の人生を壊した相手である北朝鮮、
かの国、その指導者、国民を憎むことは簡単です。
しかし、憎しみの感情をぶつけ、相手を罵倒するだけでは
話し合いもできません。
拉致被害者を助け出すためには、武力行使は無意味です。
(武力使用が非現実的であることは当ブログ、
「「拉致被害者救出には自衛隊の使用が必要」という人へ」
http://serenityprayer323.blog.fc2.com/blog-entry-44.htmlをお読みください)
交渉で取り返すしかないのです。
その際、相互に過去の出来事を持ちだし、
被害者であることのみを強調し、相手を加害者であると
詰め寄るだけでは、交渉にはなりません。
勿論、交渉ですから駆引きは必要です。
しかし、駆引きと憎悪による感情の発露は別ものです。
拉致被害者が私たちに示してくれたことが
憎悪ではなく、それを乗り越え、人を赦すことが可能であること
と考えるならば、私達は彼らの使命をしっかりと受け止めなければなりません。
北朝鮮を憎悪し、在日韓国・朝鮮人を差別し、罵詈雑言を浴びせ、
「気に入らないなら、日本から出て行け」と叫ぶ、
そのきっかけ、理由が拉致問題であって良いはずはありません。
そのような利用のされ方が拉致被害者の使命であるはずはありません。
それが拉致被害者の使命だ、という人は、
一体その先に何を見、求め、拉致被害者におしつけようとしているのでしょうか?
また、最近拉致問題啓発として、子ども達に拉致問題を知ってもらうという
取り組みが積極的に行われています。
子ども達は純粋に引き離された家族の悲しみ、辛さを想像し、
共感を覚え、一日も早い再会を願っています。
その為にできることをしようと考え、行動する子どももいます。
しかし、現実の拉致の運動はどうでしょうか。
支援団体、家族でさえ、韓国、北朝鮮に対しヘイト紛いの発言をし、
制裁や憲法改正、武力行使を口にしているのです。
北朝鮮に対する負の感情を土台として、憎悪を燃料として投下した時、
その炎は大きくなるばかりでしょう。
大きくなった炎は子ども達をも巻き込み、
自らを焼き尽くすことになるかもしれません。
拉致は大切な人権の問題なのだと言うのであれば、
憎しみの種を撒くことはしてはならないことです。
家族愛を強調しながら、それを取り戻すために、
平和でささやかな関係を断ち切った相手を憎み、
同じような目にあわせようとすることは矛盾した言動である
といえるでしょう。
又、日本と北朝鮮の間を、一部の被害者家族の言う正義と悪との戦いという
二項対立として単純化することもしてはならないことです。
ここで言う正義は日本であり、自分達であるということだろうと思いますが
北朝鮮には彼らの正義があるのです。
夫々が正義を唱え、大義名分を持ちだすなら、
和解や着地点を見出すことはできません。
特に憤りを原動力とした正義を持ちだすなら、
勝つか負けるか、生き残るかせん滅するかの二者択一になってしまうからです。
何をもって解決と言うのかの定義さえ曖昧なまま、
正義は我にありとするなら、相手を完膚なきまでに叩きのめすことになります。
その結果、負けた方には更なる憎悪が残ることになります。
憎悪に憎悪を重ねて行くことが、
拉致被害者に与えられた使命、この世に生を受けた目的であるはずはありません。
助け出すことと相手を憎み、叩きのめすこととは違います。
そこを混同してはなりません。
現状の憎しみを乗り越えて行ける、理不尽なことをした相手を
赦すことができる、和解することができる、
このことを可能にするのは、私達です。
憎しみを植え付け、更に増幅させることが
拉致被害者が私たちに与え、残したことであってはならないのです。
それでは、あまりに悲しく、虚しいことではありませんか。
拉致被害者の生きた証、早紀江さんの言葉を借りるなら
「彼らの残していった濃厚な足跡」が隣国を憎悪することであったなどと、
そのような人生を被害者に与えることを許してはならないのです。
ですから、はっきりと言います。
今の救う会の運動は間違っています。
大学教授という教育者という身分でありながら、
北朝鮮への憎しみを露わにし、日々罵詈雑言を投げつける人達が
拉致の運動の中心にいます。
来る日も来る日も、北朝鮮憎悪という燃料を投下し続ける人達が
先頭にいる運動は、和解とは程遠いものです。
和解などしなくて良い、白黒の決着を付けるのだ、というなら
それは、子ども達を含む多くの国民を巻き込み、
不幸を作り出すことになるでしょう。
拉致被害者の使命、その生の目的を歪め、貶めるものとなります。
拉致問題に関心のある皆様も、「拉致被害者の使命」という観点から、
今一度拉致問題をお考えいただけたならと思います。
スポンサーサイト