見捨てられた民
このブログは拉致問題に特化したものです。
拉致問題という切り口から、
そこに付随して見えてくるもの・事柄について、
又、拉致問題の周辺にあることなどについて書いていますが、
中心にある考え方は「排除から包摂へ」です。
ある集団、共同体の枠からはみ出すもの、
異物と捉えられるものを排除するのではなく
それらと融和し、包摂できる社会になって行ければ、ということです。
最近は、社会的包摂という言葉も使われるようになっています。
*社会的包摂・・社会的に弱い立場にある人々をも含め市民ひとりひとり、
排除や摩擦、
孤独や孤立から援護し、社会(地域社会)の一員として取り込み、
支え合う考え方のこと。
社会的排除(しゃかいてきはいじょ)の反対の概念である。(wikiより)
「包摂」「排除」というのは、
私達が現在の問題と向き合う際の向き合い方、
切り口のことを指しているのです。
例えるなら
ケース①
ある地方が、日本政府の方針に強く抗議したとします。
その際 何だと生意気な!外国のスパイめ!思い知らせてやる!→排除
何がそんなに不満なのだろう。話を聞いてみなければ。
そしてこちらの意図もしっかりと伝えよう。
そして、妥協点あるいは一致出来るところまで、
お互い譲歩出来るよう、対立ではなく、
歩み寄ろう。→包摂
ケース②
近所の外国人労働者の集団とトラブルが発生したとします。
その際 意思の疎通がとれない外国人の集団が近所にいるのは怖い。
さっさと出て行ってくれ!→排除
意思の疎通が取れないからトラブルが発生してしまった。
こんなことが二度とおきないように
コミュニケーションの機会を増やそう。→包摂
ということです。
向き合い方によって、でてくる行動は180度違ってきます。
私達はケース①②どちらの場合も、対応は「包摂」に基づくべきだと考えます。
逆に言えば、「包摂」に基づけば、どのような行動を選ぶべきなのかを、
様々な問題に接するその都度ごとに、考える必要がある、ということです。
簡単に切り捨てる・切り捨てないという2者択一ではなく、
相互で歩み寄り、互いに容認できる妥協点を求める、
ということになるでしょうか。
今回は表題の「見捨てられた民」というくくりで、
拉致問題周辺の人権問題を
「包摂」「排除」の視点に基づいて、改めて考えてみたいと思います。
1 拉致被害者
まず、見捨てられた民として「北朝鮮による拉致被害者」を取り上げます。
何をいうのか!家族も支援団体も何十年も必死に運動をしているではないか!
そして、政府を動かしたのは家族の情熱だ!
見捨てられたりなどしていない!
と言われる方もおられるでしょう。
確かに当初はそうでした。
被害者を日本国という共同体へ取り戻そうとして
家族は運動をしてきましたし、現在もしています。
しかしその際、拉致被害者の個々の人格をきちんと尊重しているかと言えば、
疑問符がつきます。
拉致はもちろん犯罪であり、許されることではありません。
しかし、現実に彼らは拉致をされ、救出されないままに、
すでに何十年という時間が過ぎ去ってしまいました。
拉致被害者の方々の人生において、
全員北朝鮮で過ごした時間の方が遥かに長くなってしまったことは、
厳然たる事実です。
つまり、拉致被害者の個々の人格には、
「北朝鮮で過ごした時間。北朝鮮で培われた人間関係」などが
大きな比重を占めているのです。
帰国すればすぐに日本社会で幸せな生活が送れる、
純粋な日本の共同体の一員のままではないのです。
被害者の中には、日本での親類・縁者のいない方もおられます。
これは良い・悪いの問題ではありません。
拉致被害者の、北朝鮮で培われた人格など無視し、切り捨て、
現在も、拉致された瞬間の数十年前の人格だと、問答無用で決めつける。
という態度を、私達は「排除」だと考えます。
そして「包摂」の考え方からは、
数十年後の現在の人格・環境が、どのようであるかをきちんと把握し、
その上での対応を、
それぞれのケースに従って模索していく必要があると考えます。
しかし、現在そのようになっているでしょうか?
どうなっているのかといえば、
「拉致被害者の即時全員一括帰国しか認めない」です。
私達はこの目標を到底実現不可能なものとして批判してきました。
なぜ、不可能なのかは当ブログの
「拉致被害者即時全員一括帰国の欺瞞」をお読みください。
http://serenityprayer323.blog.fc2.com/blog-entry-71.html実現不可能な「目標」に拘り続ける被害者家族、
それを支援する「救う会」、
救出の実務を担うが実際にはヤッテル感だけの日本政府、
これらから見えてくることは、見捨てられた拉致被害者の姿です。
そしてさらなる問題は、拉致被害者の一人一人の人格を無視して、
「日本政府が救出するまで生きていて、
拉致された時から、全く変わっておらず、
(例:13歳のままのめぐみさん)
救出を数十年間、日々待ち望んでいて、
日本に帰国することを望んでいる。」
と一律にレッテルを貼る、その姿勢です。
日本政府から望まれているのは、
作られた偶像としての「拉致被害者」ではないでしょうか?
拉致という不当な暴力に屈せず、北朝鮮の人々と一切心を通わさず、
日本という国と国民を信じ続ける、愛国的な「拉致被害者」像。
突然拉致という悲劇に襲われながらも、北朝鮮で必死に生き抜き、
他にはいない特別な、「拉致被害者」という
新しく築きあげられた人格は、
不要な人格として「排除」させられようとしているかのようです。
現実的にも、内面的にも、
拉致被害者は「排除」され、見捨てられているように見えます。
2 在日コリアン
その構図は在日韓国・朝鮮人
(朝鮮籍ということで、北朝鮮国民ということではありません)
に似てはいないでしょうか。
私達には彼らと拉致被害者が、
現実的にも、内面的にも、日本における共同体から排除されているという、
同じ性質を持つ者に見えるのです。
なによりも、望んでそうなったのではない、というところが、
悲しいことですが共通しています。
それでも強く生きていかなければならないことも。
在日の人達は、既に3世、4世の世代です。
日本で生まれ、日本語を話し、生活基盤は日本にあります。
しかし、国籍は日本ではありません。
(日本国籍に帰化された方はコリア系日本人となりますが)
そのアイデンティも日本ではありません。
常にそのことを意識し続ける必要があります。
母語である韓国語・朝鮮語は改めて学習をしなければ
身につけることはできません。
自分の出自を公にすれば、
差別をされることからも逃れられません。
かといって、先祖の出身国へ帰ることも困難です。
日本社会から差別・排除され、
祖国からも同胞とみられることが難しいという立場です。
更に、北朝鮮に渡ったまま再会できずにいる家族のいる人達もいます。
いわば、北朝鮮に人質として家族を取られている状況といえるでしょう。
※この状況は、
映画『かぞくのくに』(監督ヤン・ヨンヒ)でリアルに描かれています。
そして何よりも
拉致被害者も日本の国籍を放棄したわけではありません。
しかし、蓮池薫氏の著書などによれば、
自分達が日本人であること(出自)を
子供達にすら話すことはできなかったのであり、
日本への思慕を持ちながら、
「北朝鮮の国民」として振る舞わねばならなかったのです。
祖国、日本からはいくら待っても救出には来ない、
家族も支援団体も被害者そっちのけで運動自体が目的化し、
それに没頭している。
「しおかぜ・ふるさとの風」等のラジオ放送が聞こえてきて、
「もう少しです。元気で待っていて下さい。」
という言葉は何年繰り返されても、
具体的な進展も救出も行われない。
「コンサートをやっても何も起きない。
安全な所から、希望を持たせる言葉を何年も送ってくるだけで、
一体、もう少しってどの位をいうの?」
と思っているかもしれません。
日本社会からも排除され、完全に北朝鮮に同化することもできません。
まるで在日コリアンと拉致被害者は、海を隔てて向き合った、
合わせ鏡のようではないでしょうか?
(あくまでも境遇が、という意味であり、
在日コリアンは日本に拉致されたのだ、という意味ではありません)
3 韓国の拉致被害者
さて、ここで韓国の拉致被害者についてみてみます。
韓国には北朝鮮による拉致被害者は500人程いるそうです。
(それを考えると、警察庁発表の拉致の可能性を排除できない行方不明者が
800人超は、多すぎる気もします)
1969年KAL機がハイジャックされ、50人程の韓国人が北朝鮮へ拉致され
未だ帰国できていない人がいる、という話しも聞きます。
そして、韓国政府はそのこと(拉北者問題)に対して
積極的には取り組んでいません。
勿論、朝鮮戦争時の離散家族もいます。
ある韓国人の青年は
「こういった事情があるからこそ、日本人拉致被害者には同情するし
なんとか韓国・日本の双方の拉致被害者が
無事に家族の許に帰れることを心から願う。」
と言っています。(youtube「ソウル鳩」より)
4 北朝鮮への帰還事業
更に、北朝鮮への帰還事業で北朝鮮へ渡った日本人妻やその子孫たちも
同様の立場であると考えることができます。
太平洋戦争時に、朝鮮半島から様々な事情で日本へきて
戦後北朝鮮へ渡った人達が9万人超います。
そのうちの約7千人近くが日本国籍保持者でした。
彼らを北朝鮮へ帰還させるにあたり、
日本政府は北朝鮮が「地上の楽園」ではないことを知っていました。
彼らは北朝鮮では資本主義を知っているということで
最底辺に位置づけられ、非常に苦しい生活を強いられました。
日本政府は彼らを文字通り「厄介払い・切り捨て」たのです。
今また、家族会、救う会はその人達(及び子孫)を切り捨て、
拉致被害者を最優先に救出するべきであると言っています。
人権に格差を造ろうとしているのです。
まさしく見捨てられた民、そのものです。
5 家族会
状況はかなり違いますが、
拉致被害者家族も日本社会からの「排除」ではありませんが、
それに近い状態、「スポイル(甘やかされて台無しになった)」
されているとは言えないでしょうか。
いうならば、「排除」のために利用し尽くされたのです。
被害者家族は北朝鮮による拉致が発覚したにも関わらず、
日本政府は全く取り合わず、当初何らの対応・対策もしてもらえませんでした。
それにより家族は自分達で世論に訴え、政府を動かすしかなかったのです。
運動などとは無縁だった家族に近づき、支えたのが「救う会」でした。
しかし、この「救う会」は当初から純粋に家族の力になるだけではなく、
目的をもって近づいた部分も持ち合わせていました。
「反北朝鮮・反朝鮮総聯・北朝鮮の体制崩壊・憲法改正等」に、
拉致問題を利用できる、と考えた人達が混じっていたのです。
(現在はそのような人達が大半となり、殆ど一部の政治的考え方の人達で
占められています。
https://lite-ra.com/2018/09/post-4281.html)
元家族会事務局長蓮池透氏の著書にも、そのような記述があります。
「極めつけは、右翼の街宣車のスピーカーから大音量で流れてくる演説…
それが我々の主張とまったく同じであること。
いや、我々が同じになったのかもしれない。
いま、振り返ってみても、「救う会」の真の狙いはいったい何だったか、
それが判らない。
もちろん、被害者救出の願いや家族への同情があることは否定しないが、
根底には拉致問題を利用し国民の反北朝鮮感情を煽り、
ひいては北朝鮮国家の転覆・崩壊を目指す深謀があったのではないか、
そう考えざるをえない。」
(『拉致被害者を見殺しにした安倍晋三と冷血な面々』講談社 2015,p168)
被害者家族が心から願うこと、それは拉致された家族と再会することでしょう。
その為の運動が、何故か今、
北朝鮮への憎悪から体制崩壊を口にし、
武力使用さえ辞さない、
そのための憲法改正まで、口にするようになっています。
武力行使や憲法改正などは、国民を巻き込んだ国論を2分する問題であり、
仮に実現可能だったとしても、大変な時間と議論を要する事柄です。
武力行使に至っては、被害者自身の身に危害が及ぶ恐れすら、
考えられるのです。
(武力行使については当ブログ
「救出と武力」
http://serenityprayer323.blog.fc2.com/blog-category-6.htmlをお読みください)
被害者を「今すぐに」この手に、と願う家族が口にすることではないでしょう。
当初の、「家族を返して欲しい。それだけなのです。」という
素朴な願いが何故、
国政の重要な問題について口にするようになったのでしょうか?
支援団体が「反北朝鮮・憲法改正」を家族にレクチャーしたなら…
「気の毒な家族」を政治利用できると考えた人達が「救う会」の中に
大勢いることは、私達も体験上知っています。
家族は、その人達に担がれ、利用されているうちに
当初のごく普通の人達から、
社会的に影響力を持った人達へと変身を遂げました。
「家族との再会」という本来の願いを利用し、持ちあげ、
政治的に異論のある問題の1つの陣営の旗手として、
家族が利用されるなら、
反対の陣営にある人達からは
「家族会」の発言は色のついたものと見なされ
反感を抱かれる恐れは十分にあります。
「再会したい」と願うそれだけの純粋な気持ちを利用し、
運動を一部の陣営の目的達成のために利用するなら、
家族の思いは、
家族が望む「すべての国民が共有」するものとはならないでしょう。
まさに、「スポイル」された状態にあると言えないでしょうか。
「拉致された家族と再会したい」という、家族の純粋な気持ちは、
利用するだけ利用し、そして切り捨てられたのです。
既に、大きな影響力をもってしまったからこそ、
家族はその言動に細心の注意を払い、
一人でも多くの人々の共感を呼ぶ発言
をしていかなければならないと思うのです。
一部の人達が拍手喝さいするから、
では国民運動とはならないのです。
「排除」されてしまった、普通の人としての感覚を、
取り戻さなければなりません。
6 和解への道
昨年朝鮮半島における和解への大きな動きがありました。
しかしまだ、朝鮮戦争の終結宣言はなされていません。
韓国と北朝鮮は名目上は未だ“戦争中”という現実があります。
大韓航空機爆破、天安沈没、延坪島砲撃等、
韓国では北朝鮮の「攻撃」による被害者が大勢存在します。
韓国の兵役義務も対北朝鮮あってのことです。
この韓国・北朝鮮は未だ“戦争中”であるということは
在日のあるお母さんも、
2002年の小泉訪朝で金正日総書記が拉致を認めた時に
改めて実感したと語っておられました。
和解への道筋はできましたが、その歩みは容易なものではありません。
日本政府・救う会・家族会は、
拉致問題の解決は「排除」による、との考え方から、
朝鮮半島を巡る東アジア情勢が、対立・敵対しあう状況へ回帰することを
意図的、非意図的に願っているかのようです。
アメリカにもそのようなアプローチをしています。
しかし私達は「包摂」の考え方から、又、常識的な考え方からしても、
今すぐの南北統一は困難でも、北朝鮮と和解でき、
話し合いにより南北和平が実現し、
日韓の被害者が解放されるのが一番良いと考えています。
その際に、
拉致被害者、
在日韓国・朝鮮人の人達、
韓国の拉致被害者家族、
そして帰還事業で北朝鮮に渡ったままになっている人達、
のそれぞれの人権問題を解決する姿勢は、どうあるべきでしょうか?
「排除」の考え方では、その人のもつ国籍に従い、
どちらかの国に一斉に移動させられることになるのでしょうか?
随分乱暴な話であり、
そのような解決法で東アジアの安定が保てるようには思えません。
それどころか、そのような解決法を主張している時点で、
これから育まれなければならない信頼関係は、雲散霧消するでしょう。
末代まで残る恨みや憎しみ、痛みも、新たに発生する可能性もあります。
「包摂」の考え方では、あくまでも個々の人々の意思・人格を尊重します。
そうするとどうなるでしょうか?
二つの祖国・アイデンティティを持ち、それに苦しめられてきた人たちには、
片方をとり、片方を捨てる人もいるでしょう。
しかしどちらも大事にして、自分なりの生き方を選ぶ方も大勢いるはずです。
その際、二つのアイデンティティの調和が、一人の人間の中で成立します。
そのような人達がいてこそ、過ちから出発した敵対関係が、
和解へと向かう道筋、信頼関係が育まれる関係性へと
向かうことができるのではないでしょうか?
和解は、トップの人たちが決めればそれでOKというものではありません。
一人一人の人間の「排除よりも包摂へ」という意識がなければ、
絵に描いた餅になります。
だからこそ、今現在、日本と北朝鮮の狭間にいる拉致被害者を、
彼(彼女)の人格の半分を否定するやり方で救出しようとするのではなく、
彼(彼女)の人格そのものを生かすことができるように、
「和解による拉致問題の解決」
「拉致問題の解決による和解」
こそを、めざすべきだと考えます。
解決と和解は一体であるべきなのです。
それは在日韓国・朝鮮人の人達、韓国の拉致被害者家族、
そして帰還事業で、
北朝鮮に渡ったままになっている人達についても同じです。
何が同じなのでしょう?
「包摂」という問題の向き合い方が同じであるべきなのです。
「包摂」により、二つに引き裂かれそうな人を、
ありのままに受け入れることこそが、
共に幸せになれる、和解への道を切り開くのではないでしょうか。
対立ではなく、相互理解をしようという前提を持ち
歩み寄る、対話を求める、
過ちは認め謝罪をし、
相手も謝罪を受け入れる用意が無ければなりません。
たとえ誠心誠意謝罪をしても、相手がそれを受け容れなければ
対立は続くのです。
「彼らは嘘ばかりだ。」と
双方が改めて刷り込みを強めるだけになってしまいます。
相互不信を再構築し、補強するのではなく、
お互いに赦しあわなければならないのです。
とても難しい事だと思います。
日朝双方とも(あるいは日韓、日中などにおいても)
「被害者の気持ちになれば到底許せるものではない。
それが判らないのか!?
口では何とでもいえる。
腹の底で何を思っているのか判ったものではない。」
そのような気持ちは簡単に拭い去れるものではないことも理解できます。
しかし、それは乗り越えなければならないのです。
個人が乗り越えることができたなら、
それを誰かが政治利用することはできません。
新約聖書の中に以下のような記述があります。
「「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、
まず、この女に石を投げなさい。」 中略
これを聞いた者は、年長者から始まって、
一人また一人と、立ち去ってしまい、
イエスひとりと、真ん中に居た女が残った。」
(『聖書 新共同訳』日本聖書協会2013,(新)p180)
立ち去った人達は、自らと対峙したのです。
そして、自分の中に罪があることを認めたのです。
だから、罪を犯した女に石を投げることができなかったのです。
「あの女の犯した罪より、私の過去の罪の方が軽い。」と考え
石を投げるようなことはしませんでした。
罪を罪として認めたのです。
私達も同様です。
生まれてから今まで、一切の罪を犯さなかった者などいないのです。
一切の罪を犯さなかった国家など存在しないのです。
相手を罪に定めて糾弾するなら、
自らの罪にも目をつぶることはできません。
そうであるならば、勇気を出して罪を認め謝罪をし、
謝罪をされたなら、勇気を出して、
それを受け容れなければなりません。
このことは、自らを省みるという大変な痛みを伴うことです。
国家の面子もあります。
だからこそ、対立ではなく対話をし、
歩みより、一致できる点を探り、見つけるのです。
憎しみの連鎖は、
誰かが勇気を出して断ち切らなければなりません。
こうした状況を見てみると、
拉致被害者家族は、憎しみを煽る「救う会」を離れて、
在日韓国、朝鮮人の人達、
韓国の拉致被害者家族、
そして帰還事業で北朝鮮に渡ったままになっている人達を
救出しようと動いている人達とこそ連携をとるべきなのではないでしょうか。
昔世話になった恩義、今まで共歩んできた時間、
それらが気持ちを縛るでしょう。
しかし、今のままでは対立を煽るだけで
先へ進むことなど無いように見えます。
そう考えれば国民大集会などで、家族が
北朝鮮に協力的だからとの理由で在日朝鮮人、
朝鮮総聯を「始末しろ」とか
(始末とはどういう意味でしょうか? )
「南北朝鮮は息を吹くように嘘をつく。信用ならない。」等
の発言は無意味どころか、
有害・愚かな行為であることに気づくでしょう。
対立を煽るのではなく、
相互理解をしようと歩み寄ることが必要ではないですか。
大事なのは自分達家族の人権のみで、
「拉致問題は最大の人権侵害です。」と発言することが、
その他の人々の人権を度外視、切り捨てる発言であること、
人権に優劣・順位をつけることであることに気付くべきです。
在日の人達・韓国・北朝鮮をむやみに憎み、それを煽ることを叫ぶ、
歪んだおかしな方向へ突き進む拉致問題の運動は、
早急に軌道修正する時に来ているのではないでしょうか。
南北和解による東アジアの平和の構築は、誰にとっても望ましいことです。
だからこそ、TOP同士のやり取りが、やや行き詰まりをみせている現在、
「TOP会談だけではなく、
民間交流、NGO、各国における人権問題を解決しようとする動きこそが、
日本を含めた南北の和解へ向かうための、原動力となるべきなのだ」
という視点が必要となります。
何も南北和解は、金正恩委員長・文在寅大統領・トランプ大統領の
専売特許ではありません。
各国間の境界線上にいる「見捨てられた民」こそが、
東アジアの平和の構築の、もう一つの主役になるべきなのです。
そうして「見捨てられた民」に、今まで見捨ててきたことの赦しを乞い、
和解をし、改めて兄弟となることで、
「見捨てられた民」と私達は、
異なるアイデンティティを持ちながらも、
互いに「包摂された民」として、
共に生きることができるようになるのではないでしょうか?