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ニーバーの祈り

未分類
12 /25 2030
神よ
変えられないものを受け容れる心の平静さ
変えられるものを変える勇気
変えられないものと変えられるものを
見分ける知恵を授けてください    アーメン
ラインホルド・ニーバー

God
grant me the serenity to accept the things I cannot change,
the courage to change the things I can,
and the wisdom to distinguish the one from the other, Amen
Reinhold Niebuhr
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お知らせ

未分類
12 /24 2030
ご訪問に感謝いたします.
最初に「新しい視点」からお読みいただくと判り易いと思います.
大変ボリュームがあるので、
「本文ダイジェスト」を読んで、目次から関心のある記事を探して
お読みいただいてもかまいません.

       

横田夫妻とウンギョンさんとの面会

未分類
09 /04 2019
拉致の運動の第一線で長い間活動されてきた、
横田滋さんが体調を崩し入院されたのが昨年の4月。
もう1年5カ月たったことになります。
未だに退院の目途も立っていません。

祈り会で、早紀江さんは
「病室のベランダから見える夕日や季節の風景を見ながら、
穏やかにしております。」
と諦観の混じったような近況を話されています。

また、本年6月7日の東京連続集会で、
救う会西岡会長が以下のような話をされました。
「この前、横田滋さんを病院にお見舞いしてきましたが、
そこで「あと何か月待ってください」とは言えない。
「ここまで来ました。もう少し我慢してください」と申し上げましたが、
7月になったらどうなるというところまでは残念ながら言えません。」
とてもではないですが、
闘病の支えになるような、元気づけられる話ではありません。
もう9月です。

一方、安倍総理は、昨年9月以来何度も
「私が金委員長と直接会って話しをする番だ。」と繰り返しています。
しかし、北朝鮮とコンタクトもとれず、硬直したまま
拉致問題は文字通り1ミリの進展も見られません。

そのような状態の中、1つ、日朝の繋がりがあるのです。
横田夫妻の孫、めぐみさんの娘であるウンギョンさんです。
2014年3月、夫妻とウンギョンさんはモンゴルで面会を果たしました。
ウンギョンさんの存在が明らかになってから、
実に11年という歳月の後でした。

面会のあと、早紀江さんは言いました。
「会いに行きたいという思いは最初から持ち続けていまして、
特に主人は会いたいという思いはありましたので、
けれども向こうの国に入っていくことはできない、
いろいろな面で難しいと思っていましたので、
ほかの国で元気な間に会いたいという思いはありました。」
https://www.huffingtonpost.jp/2014/03/16/north-korea-abductees_n_4976862.html

本当は11年間、ずっと会いたかったのだ、という思いが溢れています。

そのウンギョンさんが祖父である横田滋さんの
病床を見舞うということを、何故誰も言わないのでしょう。
何故実現されないのでしょう。
病気の祖父を孫が見舞う、これは人として当然の行為でしょう。
拉致問題に取り組んでいるから孫に会うことができない、
というのでは本末転倒ではないでしょうか?

国交のない国であれば、それを可能にするのは
政治、外交の力しかありません。
人道的配慮、という考えからも実現させることはできないのでしょうか。

夫妻は、2014年の面会後、他の家族への配慮、遠慮から
「もう、会わない」という発言をされています。
https://www.sankei.com/affairs/news/160702/afr1607020002-n2.html
「拉致問題が解決されれば、自分達だけではなく、
他のご家族も自由に会えるようになるのだから」
と家族会の方々への配慮、
家族会が一枚岩であることを強調されているのです。

しかし、安倍総理が再三「日朝が直接対話をする」
と言いながら、その糸口さえもつかめていない今、
「ウンギョンさんが病気の祖父を見舞う」ということは
人道的配慮と共に、政治的な進展が望める唯一の道ではないのでしょうか。

「お見舞い」を政治的に利用するのか?という批判はあるでしょう。
政治的な思惑を排除できれば、一番良いのですが、
しかし、拉致問題自体が過度に政治的な案件である以上、
できることはするべきと考え、「お見舞い」を実現させても
良いのではないのでしょうか。

ウンギョンさんがめぐみさんではないことは誰でも判っていることです。
それでも、2014年の面会時、
夫妻はウンギョンさんやそのお子さん(夫妻にとっての曾孫)の中に
幼いときのめぐみさんの面影を見ているのです。
いつ、事態が動くのか判らない、
更に、動いた後でも、いつ被害者の帰国が実現するのか判らない今、
せめて、娘の面影を宿した孫や曾孫との面会を実現されることは
許されるものであると考えます。
いや、誰がそれを禁じることができましょう。

様々な理由をつけ、周囲への配慮をしながら、
気持ちを抑え続ける夫妻が気の毒でなりません。
ただ1つの、そして人道的な配慮から
今、ウンギョンさんの訪日、祖父へのお見舞いを
実現させることは、日朝双方にとって有益なことではないのでしょうか。

ある特殊なかたちの「解決」しか認めず、それ以外の進展を望まない人たちが
ウンギョンさんの訪日を阻止しようとするかもしれません。
しかし、それでは拉致問題の進展は望めないのです。
ウンギョンさんの訪日の可否は、
拉致問題解決、進展への意志があるのかどうかの
踏み絵となるかもしれません。

「病気療養中の祖父のお見舞いのために
孫であるウンギョンさんを訪日させてください。」
と多くの国民が声をあげ、後押しをすることは
人道的に考えて間違っていることではありません。

もし、ご同意頂ける方は、
どのようなかたちでもよいので、
是非声を挙げてください。

第25回参議院選挙に寄せて

未分類
07 /28 2019
第25回参議院選挙に寄せて

このブログは拉致問題に特化したものとしているので
社会にある様々な問題について語ることは、意図的に控えてきました。
ただ、今回の参議院選挙における、Twitterへの投稿や
他のブログの記事を読み続けてきて、
保守・ネトウヨ陣営vsリベラル陣営 という図式が出来上がり
あたかもその2つしか存在しないかのように人々を括っているかのよう、
相手陣営に単純にレッテル貼りをし、自分達vsその他に分け、
相手を排除しているかのように見える部分がありましたので、
「排除と包摂」という私達の基本にある考え方から
この状況について書いてみることにします。

私達が以前、拉致被害者救出支援活動のために
救う会という組織に所属していたことはプロフィールにもある通りです。

*救う会について少し説明をします。
「北朝鮮に拉致された日本人を救出する〇〇の会」という名称で
「救う会」は各県に1つだけ存在し、〇〇の中には、その県名が入ります。
ただし、救う会東京というのはなく、全国協議会がその役割を果たしています。
そこに居た時は、拉致は日本国に対する主権侵害なのだから武力使用をしてでも
被害者を取り戻すべきである、と考えている人達が多くを占める中で、
私達もそのような考え方に「まあ、そのような人がいるのは仕方がないか」
という程度で、積極的に反対はしませんでした。
今では救う会は、その当時より、かなり過激に武力使用や
「全員即時一括帰国以外認めない」という非現実路線をひた走っています。
勿論安倍政権寄り(殆ど支持)であることは言うまでもありません。

そのような、多くの人達が抱く、イメージ通りのウヨク・ネトウヨという人達以外に
ここ数回の選挙で明らかなように、ごく一般的な人達が
自民党を消極的にでも支持しているという事実があります。
その一般的な、無党派的な消極的自民党支持者に対しては
「彼らは頭が悪すぎる。自分の首を絞めていることにすら気づかない。
日本人は民度が低い。消極的支持でも自民党支持なら、ウヨクと同じ」
というような声が飛んでいます。
彼らは現実が見えていないという立場からの批判・排除です。

しかし、立ち止まって考えてみましょう。
彼らのような、誰が話していようが街頭演説に足も止めず素通りをする。
TVで放映される政見放送も観ない。
youtubeでわざわざ探して候補者の動画を観ることもしない。
当然、街頭演説で支持者に声援を送ったり、
選挙候補者や政党のチラシをポスティングなどせず、
家のポストにチラシが入っていれば、即ごみ箱へ、
という無関心な
しかし、投票時には「自民党で良いんじゃないの?とりあえず。」という
行動をする人達。
彼らは何故、そうなのか?何故、そう考えるのか?
そこを考えずに「彼らは考えることをしない奴隷志向の持ち主だから」
で終わらせ、排除してしまえば、彼らの気持ちを次の選挙の時に
振り向かせることはできないのではないでしょうか。
「実際痛い目に遭わなければ判らない人たち」
という見方は不毛ではないでしょうか。

私の知り合いに30代で2人の子どもがおり、
正規雇用者、共働きの青年がいます。
ごく一般的なモデルだと思います。A君としましょう。

彼は特に「何がしたいから、この大学へいく!」
というようなこともなく、「皆行くから」と大学へ進学し、就職をしました。
世間の人達が誰でも知っているような大きな会社ではありません。
そこで結婚をし、子どもが誕生。
このままこの会社に居てもと考え、資格を取り続け、
少しづつステップアップしながら少し大きな会社へ転職をしました。
そこでも更に勉強を続け次なるステップアップをしようとしています。

誰でも今の生活よりは、少しでも豊かに、安定した生活を送りたいと
考えますがA君も同じです。
平日は出勤前に子供たちを保育園へ送り、
帰宅後は勉強をし、家事も分担し、
休日には子供と遊び、という生活をしています。
政治にはほぼ無関心で、平日のニュース番組を観る程度の様です。

先日、そのA君と選挙について話しをする機会がありました。
彼は「自民党でしょうね。だって今のままでいいじゃないですか。」といいました。

新自由主義社会となり、競争、競争と追い立てられる生活がいいのか?
と思いましたが、
A君、そして彼に代表される多くの人達は、
中学、高校、大学、そして就職をしてからも
「組織」の中で競争しながら生きてきました。
部活、受験(塾や予備校)、毎日がとても忙しい生活を送ってきたのです。
その中で、希望通りにいかないことに遭遇し、
自分よりも優れた人達を多く見てきたことでしょう。
頑張っても「彼らのようなエリートやスーパーエリートにはなれない」
という存在を見て、感じ、
それでもその時できることを自分なりにしてきたのでしょう。

どんなに頑張っても超えるどころか、届かない才能を持ったエリートがいる。
しかし、下を見れば、まだそこにも誰かがいる。
底辺までは落ちたくない、今の位置でいいから、
それを保つためにできることをする。持てる力を使って。
それでやっと、今の位置に居続けているのだとしたら、
それには、ある程度の努力が必要なのは
仕方ないだろう、当然だろう、
自分たちもギリギリで努力をしてるのに
下にいる人達が 苦しいといっても、
それは努力不足だからだ=自己責任
という考え方になっているとしたら、
それは、ある意味仕方がないことなのではないでしょうか。
少なくとも、全く理解不能な発想ではありません。

つまるところ、自分以外の大変な人達を思いやる余裕がないのです。
A君自身も大変なのですが、それは周りも同じ、
「当たり前のこと」という認識でいるのです。
自分より「遙かに」大変な人がいるかもしれない、
ということに想像力を働かせる余裕がないのです。

新自由主義社会が作り出す、成果主義。
ここに嵌め込まれてしまって、逃げ出せないなら
そこで、何とかするしかないのです。
個人の才能、親の財力を持たない、ごく一般的な多くの人達(私もそうですが)は
生活維持に忙しく、周りを見られないようにされているのです。
上にいくことは諦めるけれど、下に落ちることはできないから
”今“を踏ん張る、益々周りを見る余裕がなくなる、
という悪循環に嵌め込まれているのだろうと思います。
新自由主義とグローバリズムによる分断です。
上か下かで言えば、彼らも下なのですが、それより下もいて、
そこには行けない、と思わされている。
勿論、それが差別の温床になっています。

本当は、弱い人たちが生きやすい社会、
存在するだけで「あなたはあなたのままで良い」と言われ
生きて行ける社会が理想です。
しかし、それは少し考えてみれば、大きな理想ではあるけれど、
中々困難な道であることも判ってしまう。
不可能だと諦めさせられてしまう。

大きな力を持たないA君たちにしてみれば
現実を理想に近づける努力をすれば、何とかなると言うものでもない、
自分は自分の家族を守るだけで精一杯だから。
その小さな幸福を守る為には「努力」が必要、
それができないのはしない人が悪いと言う刷り込みには気付けないほどに、
忙しい、ということではないのでしょうか。
努力をしても思い通りの結果を得られない、
様々な事情で努力をすることができない、しづらい人もいますが
それらを考えないのではなく、考えないようにさせられているのです。
悪循環に取り込まれているのです。
社会的に有名な大手企業でさえ4000人~5000人規模での早期退職募集です。
ましてや日産にいたっては、その倍以上の人数の
早期退職者を募集するというニュースが最近報道されたばかりです。

そこから出て、実力で次を得られる保証はありません。
その中に入らないようにと願う恐怖はどれほどのものでしょうか。
フリーランスで生きて行くほどの勇気も、能力も無ければ
“そこ”にしがみ付くしかないのです。

「人を思いやれないお前は、優しくないとは言われるけど、
俺達も必死で頑張ってるんだよ!
頑張れない人の事を考える余裕なんてない、”今“が大事だから自民党。」
というA君のような人達を、
「今の状況も認識できず頭が悪いな。ホント、どうしようもないわ。
彼らが日本の未来を壊しているのだ。奴隷根性に取りつかれて。」
と切り捨てることは
弱い立場に気持ちを寄せる人達が言ってしまってよいのでしょうか。
そこには、やはり排除、切り捨てが存在するのではないのでしょうか。
人権・リベラルをいうのであれば、
そこは一歩歩み寄り、彼らの言い分を
まず、聞くことが必要なのではないでしょうか。

奴隷根性から抜け出して、自由がいいに決まっているではないか。
と誰しも思うでしょう。
しかし、自由は厳しいものです。
自分で考え、決断し、結果の責任も自分でとる。
それは、能力、強い精神力、行動力のある人には心地よいかもしれません。
しかし、私のような凡人には中々辛いことです。
誰か、強い指導者がいて、引っ張っていってくれたらよいのに、
と思うことはあるでしょう。
強いリーダーシップがある人についていければ、楽で良いのですから。
それが行きすぎると、ファシズムへと陥ります。
エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』にある通りです。
そのような奴隷根性、「自由からの逃走」は
何もヒトラーのドイツに始まったわけではありません。
旧約聖書の「出エジプト記」にも描かれています。

*出エジプト記
古代のエジプトでユダヤ人は奴隷として使役されていました。
彼らは、モーセという力強い指導者に導かれ、エジプトを脱出します。
家族、家畜を伴い、追手のエジプト軍を振り切り
(ここは有名な映画『十戒』、『エクソダス 神と王』の
海が割れるシーンでおなじみです)
荒野を旅します。
しかし、追手を振り切ったものの、荒野には水も食料もありません。
「ああ、エジプトで奴隷でいた方が良かった。
毎日、肉のスープを食べられていたのだから。
モーセに付いてきてバカを見た。また奴隷でもいいからエジプトに戻りたい。」
と嘆くのでした。

人の本質とは、昔から変わらないのです。

A君たちが通っていた公立中学校では、
いわゆる制服は「標準服」という名称でした。
標準服なのですから、白いシャツ、黒いパンツであれば、
ほぼ何でもよかったのだろうと思います。
しかし、自由に白いポロシャツや黒のパンツで通う生徒はいませんでした。
学校指定の業者から「標準服」を購入し、「制服」のように着ていたのです。
何故でしょう?
人と違う服装をして、何か言われた時にそれを押し通すだけの
勇気も強さも持たないからです。
「彼らは奴隷根性に心底侵されている。どうしようもないな。」
と批判できる人はいますか?
「いじめ」を在学中に一度も認識したことがない、
という人がいれば、
その人は無意識の加害者だった可能性があります。

「自由にしても良いのだよ」とは本当はとても怖いことなのです。
「寄らば大樹の陰、長いものには巻かれろ」的な人達にとって
生きづらいけれど、安定していると感じられるから「自民党でいいや」
となるのでしょう。
その先のことを考える想像力を持つ余裕もないのです。
“今現在”少々の不満はあれども、何とかなっていると思うなら
その“安定”をわざわざ壊そうという冒険は考えないでしょう。
たとえ、近い将来地獄が待っている、と理路整然と説明されたとしても。

そんな彼らを、バラマキや迎合的ではない地に足のついた言葉、政策で
彼らを振り向かせることができるのは誰でしょうか?
アジテーションではなく、熱狂させることもなく、
彼らの心を射抜くのではなく、
静かに彼らの心に届く言葉を語れるのは誰でしょうか?
熱狂させられて、一時の熱に惑わされてはならないことは
言うまでもないことです。
熱情的な言葉や動作に“感動”させられることのない冷静さ・慎重さは
常にもっていなければなりません。
一時的な熱狂で何度も裏切られてきたのですから。

「もっと面白くしましょう」という声があがることがあります。
政治はサッカーやゲームではありません。
私たちの生活や命、未来がかかったものです。
面白くなくても良いのです。
面白がる必要もありません
関心を持ってもらう為に奇をてらう必要はありません。
面白くなくて良いのです。

A君たちのような「変化ではなく安定を望むので、消極的自民党支持」
という人達を「頭悪すぎ」と排除するのではなく、
彼らに届く言葉を語ってください。

以前リベラルの集会で、
大学の先生・学生たちによるパネルディスカッションがありました。
その中で、
「私の周りには安倍支持者など誰もいないよ。
一体どのような人が安倍総理を支持してるのでしょうね」
というような発言があり、一同そろって頷くという場面がありました。

彼らにはA君のような人たちのことが目に入りにくいのでしょう。
大学、という特殊な社会で生活している以上、それは無理からぬことであり、
それをどうこう言う気はありません。
大学人である以上、学問や研究で社会貢献して頂ければ充分です。

それではA君のような人を日々目にしていて、
ある程度共感できる人は誰なのか?
それはその時の聴衆であったと思います。

よく集会や勉強会などで、質問時間に
「では私達は具体的に何をすればいいのでしょうか?」
と聞く人がいます。

その人たちは、話を聞いて、やることも教えてもらおうとしますが、
人間そのように一方的に、
与える人と与えられる人に分けられるものではない、と私は思います。
話をする人は自分のもっている最良のもの使って話をする。
とても大事な事です。
一方それを聞いた人は自分なりに咀嚼し、
他の人とその件について話しをし、周りに伝えていく。
それも同じように大事な事です。

いや、一人一人のコミュニケーションズにつながらなければ、全ては虚しいこと。
という見方もできると思います。
ただ、聞いて、「良かった。感動した。」と
そこで話された通りのことを鵜呑みにしてしまうのでは
「それ」か「あれ」かの二項対立にしかなりません。
それはそれで、自分で考えてはいないということになります。
ただ、熱に浮かされているだけでしょう。

皆さんのできることは色々あるでしょう。
署名活動・寄付・ビラ配り・ポスティング・ポスター貼り・・・
それぞれ大事な事です。
しかし一方で内心
「自分達はこんなに頑張っているのに、なぜ分かってもらえないのだ!」
と思っているのでは、思いはそこでストップしてしまいます。

「私達と同じように頑張っているはずの人たちに、
なぜ私達の思いが伝わらないのだろう。
彼らが何を考えているのか知りたい。聞いてみたい。」
そう思ってはもらえないでしょうか。

もちろん、すぐ分かってもらえる可能性は低いです。
しかし一方的に自分の思いを話すのではなく、
対話をすれば、
「その人の思い」は相手の心にどのようなかたちであれ、残ります。
それがいつどのような形で芽を吹き、根を伸ばし、葉を茂らすか。
少なくとも種をまかなければ始まりません。

私には、どのような選挙のテクニックよりも、
一人一人が思いを伝えあうことの方が、
よりよい社会を築きあげていくための、
いや、今崩壊している社会を立て直すための、重要な行為だと思います。

「身近な人に政治の話をするのは敷居が高い」
よく分かります。本当に敷居が高いですよね。
まずは「聞く」ことから始めましょう。
相手を「分からず屋」だと決めつける前に。

見捨てられた民

未分類
01 /14 2019
見捨てられた民

このブログは拉致問題に特化したものです。
拉致問題という切り口から、
そこに付随して見えてくるもの・事柄について、
又、拉致問題の周辺にあることなどについて書いていますが、
中心にある考え方は「排除から包摂へ」です。

ある集団、共同体の枠からはみ出すもの、
異物と捉えられるものを排除するのではなく
それらと融和し、包摂できる社会になって行ければ、ということです。
最近は、社会的包摂という言葉も使われるようになっています。
*社会的包摂・・社会的に弱い立場にある人々をも含め市民ひとりひとり、
排除や摩擦、
孤独や孤立から援護し、社会(地域社会)の一員として取り込み、
支え合う考え方のこと。
社会的排除(しゃかいてきはいじょ)の反対の概念である。(wikiより)

「包摂」「排除」というのは、
私達が現在の問題と向き合う際の向き合い方、
切り口のことを指しているのです。

例えるなら
ケース① 
ある地方が、日本政府の方針に強く抗議したとします。
その際 何だと生意気な!外国のスパイめ!思い知らせてやる!→排除
     
何がそんなに不満なのだろう。話を聞いてみなければ。
そしてこちらの意図もしっかりと伝えよう。
そして、妥協点あるいは一致出来るところまで、
お互い譲歩出来るよう、対立ではなく、
歩み寄ろう。→包摂

ケース②
近所の外国人労働者の集団とトラブルが発生したとします。
その際 意思の疎通がとれない外国人の集団が近所にいるのは怖い。
さっさと出て行ってくれ!→排除
       
意思の疎通が取れないからトラブルが発生してしまった。
こんなことが二度とおきないように
コミュニケーションの機会を増やそう。→包摂

ということです。

向き合い方によって、でてくる行動は180度違ってきます。
私達はケース①②どちらの場合も、対応は「包摂」に基づくべきだと考えます。

逆に言えば、「包摂」に基づけば、どのような行動を選ぶべきなのかを、
様々な問題に接するその都度ごとに、考える必要がある、ということです。
簡単に切り捨てる・切り捨てないという2者択一ではなく、
相互で歩み寄り、互いに容認できる妥協点を求める、
ということになるでしょうか。

今回は表題の「見捨てられた民」というくくりで、
拉致問題周辺の人権問題を
「包摂」「排除」の視点に基づいて、改めて考えてみたいと思います。

1 拉致被害者
まず、見捨てられた民として「北朝鮮による拉致被害者」を取り上げます。

何をいうのか!家族も支援団体も何十年も必死に運動をしているではないか!
そして、政府を動かしたのは家族の情熱だ!
見捨てられたりなどしていない!
と言われる方もおられるでしょう。

確かに当初はそうでした。
被害者を日本国という共同体へ取り戻そうとして
家族は運動をしてきましたし、現在もしています。

しかしその際、拉致被害者の個々の人格をきちんと尊重しているかと言えば、
疑問符がつきます。

拉致はもちろん犯罪であり、許されることではありません。
しかし、現実に彼らは拉致をされ、救出されないままに、
すでに何十年という時間が過ぎ去ってしまいました。
拉致被害者の方々の人生において、
全員北朝鮮で過ごした時間の方が遥かに長くなってしまったことは、
厳然たる事実です。

つまり、拉致被害者の個々の人格には、
「北朝鮮で過ごした時間。北朝鮮で培われた人間関係」などが
大きな比重を占めているのです。
帰国すればすぐに日本社会で幸せな生活が送れる、
純粋な日本の共同体の一員のままではないのです。
被害者の中には、日本での親類・縁者のいない方もおられます。

これは良い・悪いの問題ではありません。
拉致被害者の、北朝鮮で培われた人格など無視し、切り捨て、
現在も、拉致された瞬間の数十年前の人格だと、問答無用で決めつける。
という態度を、私達は「排除」だと考えます。

そして「包摂」の考え方からは、
数十年後の現在の人格・環境が、どのようであるかをきちんと把握し、
その上での対応を、
それぞれのケースに従って模索していく必要があると考えます。

しかし、現在そのようになっているでしょうか?
どうなっているのかといえば、
「拉致被害者の即時全員一括帰国しか認めない」です。
私達はこの目標を到底実現不可能なものとして批判してきました。
なぜ、不可能なのかは当ブログの
「拉致被害者即時全員一括帰国の欺瞞」をお読みください。
http://serenityprayer323.blog.fc2.com/blog-entry-71.html

実現不可能な「目標」に拘り続ける被害者家族、
それを支援する「救う会」、
救出の実務を担うが実際にはヤッテル感だけの日本政府、
これらから見えてくることは、見捨てられた拉致被害者の姿です。

そしてさらなる問題は、拉致被害者の一人一人の人格を無視して、
「日本政府が救出するまで生きていて、
拉致された時から、全く変わっておらず、
(例:13歳のままのめぐみさん)
救出を数十年間、日々待ち望んでいて、
日本に帰国することを望んでいる。」
と一律にレッテルを貼る、その姿勢です。

日本政府から望まれているのは、
作られた偶像としての「拉致被害者」ではないでしょうか?
拉致という不当な暴力に屈せず、北朝鮮の人々と一切心を通わさず、
日本という国と国民を信じ続ける、愛国的な「拉致被害者」像。

突然拉致という悲劇に襲われながらも、北朝鮮で必死に生き抜き、
他にはいない特別な、「拉致被害者」という
新しく築きあげられた人格は、
不要な人格として「排除」させられようとしているかのようです。

現実的にも、内面的にも、
拉致被害者は「排除」され、見捨てられているように見えます。

2 在日コリアン
その構図は在日韓国・朝鮮人
(朝鮮籍ということで、北朝鮮国民ということではありません)
に似てはいないでしょうか。
私達には彼らと拉致被害者が、
現実的にも、内面的にも、日本における共同体から排除されているという、
同じ性質を持つ者に見えるのです。

なによりも、望んでそうなったのではない、というところが、
悲しいことですが共通しています。
それでも強く生きていかなければならないことも。

在日の人達は、既に3世、4世の世代です。
日本で生まれ、日本語を話し、生活基盤は日本にあります。
しかし、国籍は日本ではありません。
(日本国籍に帰化された方はコリア系日本人となりますが)
そのアイデンティも日本ではありません。
常にそのことを意識し続ける必要があります。

母語である韓国語・朝鮮語は改めて学習をしなければ
身につけることはできません。
自分の出自を公にすれば、
差別をされることからも逃れられません。
かといって、先祖の出身国へ帰ることも困難です。
日本社会から差別・排除され、
祖国からも同胞とみられることが難しいという立場です。

更に、北朝鮮に渡ったまま再会できずにいる家族のいる人達もいます。
いわば、北朝鮮に人質として家族を取られている状況といえるでしょう。
 ※この状況は、
  映画『かぞくのくに』(監督ヤン・ヨンヒ)でリアルに描かれています。

そして何よりも
拉致被害者も日本の国籍を放棄したわけではありません。
しかし、蓮池薫氏の著書などによれば、
自分達が日本人であること(出自)を
子供達にすら話すことはできなかったのであり、
日本への思慕を持ちながら、
「北朝鮮の国民」として振る舞わねばならなかったのです。

祖国、日本からはいくら待っても救出には来ない、
家族も支援団体も被害者そっちのけで運動自体が目的化し、
それに没頭している。
「しおかぜ・ふるさとの風」等のラジオ放送が聞こえてきて、
「もう少しです。元気で待っていて下さい。」
という言葉は何年繰り返されても、
具体的な進展も救出も行われない。
「コンサートをやっても何も起きない。
安全な所から、希望を持たせる言葉を何年も送ってくるだけで、
一体、もう少しってどの位をいうの?」
と思っているかもしれません。
日本社会からも排除され、完全に北朝鮮に同化することもできません。

まるで在日コリアンと拉致被害者は、海を隔てて向き合った、
合わせ鏡のようではないでしょうか?
(あくまでも境遇が、という意味であり、
在日コリアンは日本に拉致されたのだ、という意味ではありません)

3 韓国の拉致被害者
さて、ここで韓国の拉致被害者についてみてみます。
韓国には北朝鮮による拉致被害者は500人程いるそうです。
(それを考えると、警察庁発表の拉致の可能性を排除できない行方不明者が
800人超は、多すぎる気もします)
1969年KAL機がハイジャックされ、50人程の韓国人が北朝鮮へ拉致され
未だ帰国できていない人がいる、という話しも聞きます。

そして、韓国政府はそのこと(拉北者問題)に対して
積極的には取り組んでいません。
勿論、朝鮮戦争時の離散家族もいます。

ある韓国人の青年は
「こういった事情があるからこそ、日本人拉致被害者には同情するし
なんとか韓国・日本の双方の拉致被害者が
無事に家族の許に帰れることを心から願う。」
と言っています。(youtube「ソウル鳩」より)

4 北朝鮮への帰還事業
更に、北朝鮮への帰還事業で北朝鮮へ渡った日本人妻やその子孫たちも
同様の立場であると考えることができます。

太平洋戦争時に、朝鮮半島から様々な事情で日本へきて
戦後北朝鮮へ渡った人達が9万人超います。
そのうちの約7千人近くが日本国籍保持者でした。

彼らを北朝鮮へ帰還させるにあたり、
日本政府は北朝鮮が「地上の楽園」ではないことを知っていました。
彼らは北朝鮮では資本主義を知っているということで
最底辺に位置づけられ、非常に苦しい生活を強いられました。

日本政府は彼らを文字通り「厄介払い・切り捨て」たのです。
今また、家族会、救う会はその人達(及び子孫)を切り捨て、
拉致被害者を最優先に救出するべきであると言っています。
人権に格差を造ろうとしているのです。
まさしく見捨てられた民、そのものです。

5 家族会
状況はかなり違いますが、
拉致被害者家族も日本社会からの「排除」ではありませんが、
それに近い状態、「スポイル(甘やかされて台無しになった)」
されているとは言えないでしょうか。
いうならば、「排除」のために利用し尽くされたのです。

被害者家族は北朝鮮による拉致が発覚したにも関わらず、
日本政府は全く取り合わず、当初何らの対応・対策もしてもらえませんでした。
それにより家族は自分達で世論に訴え、政府を動かすしかなかったのです。

運動などとは無縁だった家族に近づき、支えたのが「救う会」でした。
しかし、この「救う会」は当初から純粋に家族の力になるだけではなく、
目的をもって近づいた部分も持ち合わせていました。
「反北朝鮮・反朝鮮総聯・北朝鮮の体制崩壊・憲法改正等」に、
拉致問題を利用できる、と考えた人達が混じっていたのです。
(現在はそのような人達が大半となり、殆ど一部の政治的考え方の人達で
占められています。https://lite-ra.com/2018/09/post-4281.html

元家族会事務局長蓮池透氏の著書にも、そのような記述があります。
「極めつけは、右翼の街宣車のスピーカーから大音量で流れてくる演説…
それが我々の主張とまったく同じであること。
いや、我々が同じになったのかもしれない。
 いま、振り返ってみても、「救う会」の真の狙いはいったい何だったか、
それが判らない。
 もちろん、被害者救出の願いや家族への同情があることは否定しないが、
根底には拉致問題を利用し国民の反北朝鮮感情を煽り、
ひいては北朝鮮国家の転覆・崩壊を目指す深謀があったのではないか、
そう考えざるをえない。」
(『拉致被害者を見殺しにした安倍晋三と冷血な面々』講談社 2015,p168)

被害者家族が心から願うこと、それは拉致された家族と再会することでしょう。
その為の運動が、何故か今、
北朝鮮への憎悪から体制崩壊を口にし、
武力使用さえ辞さない、
そのための憲法改正まで、口にするようになっています。

武力行使や憲法改正などは、国民を巻き込んだ国論を2分する問題であり、
仮に実現可能だったとしても、大変な時間と議論を要する事柄です。
武力行使に至っては、被害者自身の身に危害が及ぶ恐れすら、
考えられるのです。
(武力行使については当ブログ
「救出と武力」http://serenityprayer323.blog.fc2.com/blog-category-6.html
をお読みください)
被害者を「今すぐに」この手に、と願う家族が口にすることではないでしょう。

当初の、「家族を返して欲しい。それだけなのです。」という
素朴な願いが何故、
国政の重要な問題について口にするようになったのでしょうか?
支援団体が「反北朝鮮・憲法改正」を家族にレクチャーしたなら…

「気の毒な家族」を政治利用できると考えた人達が「救う会」の中に
大勢いることは、私達も体験上知っています。
家族は、その人達に担がれ、利用されているうちに
当初のごく普通の人達から、
社会的に影響力を持った人達へと変身を遂げました。
「家族との再会」という本来の願いを利用し、持ちあげ、
政治的に異論のある問題の1つの陣営の旗手として、
家族が利用されるなら、
反対の陣営にある人達からは
「家族会」の発言は色のついたものと見なされ
反感を抱かれる恐れは十分にあります。

「再会したい」と願うそれだけの純粋な気持ちを利用し、
運動を一部の陣営の目的達成のために利用するなら、
家族の思いは、
家族が望む「すべての国民が共有」するものとはならないでしょう。
まさに、「スポイル」された状態にあると言えないでしょうか。
「拉致された家族と再会したい」という、家族の純粋な気持ちは、
利用するだけ利用し、そして切り捨てられたのです。

既に、大きな影響力をもってしまったからこそ、
家族はその言動に細心の注意を払い、
一人でも多くの人々の共感を呼ぶ発言
をしていかなければならないと思うのです。
一部の人達が拍手喝さいするから、
では国民運動とはならないのです。

「排除」されてしまった、普通の人としての感覚を、
取り戻さなければなりません。

6 和解への道
昨年朝鮮半島における和解への大きな動きがありました。
しかしまだ、朝鮮戦争の終結宣言はなされていません。

韓国と北朝鮮は名目上は未だ“戦争中”という現実があります。
大韓航空機爆破、天安沈没、延坪島砲撃等、
韓国では北朝鮮の「攻撃」による被害者が大勢存在します。
韓国の兵役義務も対北朝鮮あってのことです。

この韓国・北朝鮮は未だ“戦争中”であるということは
在日のあるお母さんも、
2002年の小泉訪朝で金正日総書記が拉致を認めた時に
改めて実感したと語っておられました。
和解への道筋はできましたが、その歩みは容易なものではありません。

日本政府・救う会・家族会は、
拉致問題の解決は「排除」による、との考え方から、
朝鮮半島を巡る東アジア情勢が、対立・敵対しあう状況へ回帰することを
意図的、非意図的に願っているかのようです。
アメリカにもそのようなアプローチをしています。

しかし私達は「包摂」の考え方から、又、常識的な考え方からしても、
今すぐの南北統一は困難でも、北朝鮮と和解でき、
話し合いにより南北和平が実現し、
日韓の被害者が解放されるのが一番良いと考えています。
その際に、
拉致被害者、
在日韓国・朝鮮人の人達、
韓国の拉致被害者家族、
そして帰還事業で北朝鮮に渡ったままになっている人達、
のそれぞれの人権問題を解決する姿勢は、どうあるべきでしょうか?

「排除」の考え方では、その人のもつ国籍に従い、
どちらかの国に一斉に移動させられることになるのでしょうか?
随分乱暴な話であり、
そのような解決法で東アジアの安定が保てるようには思えません。
それどころか、そのような解決法を主張している時点で、
これから育まれなければならない信頼関係は、雲散霧消するでしょう。
末代まで残る恨みや憎しみ、痛みも、新たに発生する可能性もあります。

「包摂」の考え方では、あくまでも個々の人々の意思・人格を尊重します。
そうするとどうなるでしょうか?
二つの祖国・アイデンティティを持ち、それに苦しめられてきた人たちには、
片方をとり、片方を捨てる人もいるでしょう。
しかしどちらも大事にして、自分なりの生き方を選ぶ方も大勢いるはずです。
その際、二つのアイデンティティの調和が、一人の人間の中で成立します。
そのような人達がいてこそ、過ちから出発した敵対関係が、
和解へと向かう道筋、信頼関係が育まれる関係性へと
向かうことができるのではないでしょうか?

和解は、トップの人たちが決めればそれでOKというものではありません。
一人一人の人間の「排除よりも包摂へ」という意識がなければ、
絵に描いた餅になります。
だからこそ、今現在、日本と北朝鮮の狭間にいる拉致被害者を、
彼(彼女)の人格の半分を否定するやり方で救出しようとするのではなく、
彼(彼女)の人格そのものを生かすことができるように、
「和解による拉致問題の解決」
「拉致問題の解決による和解」
こそを、めざすべきだと考えます。

解決と和解は一体であるべきなのです。
それは在日韓国・朝鮮人の人達、韓国の拉致被害者家族、
そして帰還事業で、
北朝鮮に渡ったままになっている人達についても同じです。

何が同じなのでしょう?
「包摂」という問題の向き合い方が同じであるべきなのです。
「包摂」により、二つに引き裂かれそうな人を、
ありのままに受け入れることこそが、
共に幸せになれる、和解への道を切り開くのではないでしょうか。

対立ではなく、相互理解をしようという前提を持ち
歩み寄る、対話を求める、
過ちは認め謝罪をし、
相手も謝罪を受け入れる用意が無ければなりません。
たとえ誠心誠意謝罪をしても、相手がそれを受け容れなければ
対立は続くのです。
「彼らは嘘ばかりだ。」と
双方が改めて刷り込みを強めるだけになってしまいます。

相互不信を再構築し、補強するのではなく、
お互いに赦しあわなければならないのです。
とても難しい事だと思います。
日朝双方とも(あるいは日韓、日中などにおいても)
「被害者の気持ちになれば到底許せるものではない。
それが判らないのか!?
口では何とでもいえる。
腹の底で何を思っているのか判ったものではない。」
そのような気持ちは簡単に拭い去れるものではないことも理解できます。
しかし、それは乗り越えなければならないのです。
個人が乗り越えることができたなら、
それを誰かが政治利用することはできません。

新約聖書の中に以下のような記述があります。
「「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、
まず、この女に石を投げなさい。」 中略 
これを聞いた者は、年長者から始まって、
一人また一人と、立ち去ってしまい、
イエスひとりと、真ん中に居た女が残った。」
(『聖書 新共同訳』日本聖書協会2013,(新)p180)

立ち去った人達は、自らと対峙したのです。
そして、自分の中に罪があることを認めたのです。
だから、罪を犯した女に石を投げることができなかったのです。
「あの女の犯した罪より、私の過去の罪の方が軽い。」と考え
石を投げるようなことはしませんでした。
罪を罪として認めたのです。

私達も同様です。
生まれてから今まで、一切の罪を犯さなかった者などいないのです。
一切の罪を犯さなかった国家など存在しないのです。
相手を罪に定めて糾弾するなら、
自らの罪にも目をつぶることはできません。
そうであるならば、勇気を出して罪を認め謝罪をし、
謝罪をされたなら、勇気を出して、
それを受け容れなければなりません。

このことは、自らを省みるという大変な痛みを伴うことです。
国家の面子もあります。
だからこそ、対立ではなく対話をし、
歩みより、一致できる点を探り、見つけるのです。
憎しみの連鎖は、
誰かが勇気を出して断ち切らなければなりません。

こうした状況を見てみると、
拉致被害者家族は、憎しみを煽る「救う会」を離れて、
在日韓国、朝鮮人の人達、
韓国の拉致被害者家族、
そして帰還事業で北朝鮮に渡ったままになっている人達を
救出しようと動いている人達とこそ連携をとるべきなのではないでしょうか。
昔世話になった恩義、今まで共歩んできた時間、
それらが気持ちを縛るでしょう。
しかし、今のままでは対立を煽るだけで
先へ進むことなど無いように見えます。

そう考えれば国民大集会などで、家族が
北朝鮮に協力的だからとの理由で在日朝鮮人、
朝鮮総聯を「始末しろ」とか
(始末とはどういう意味でしょうか? )
「南北朝鮮は息を吹くように嘘をつく。信用ならない。」等
の発言は無意味どころか、
有害・愚かな行為であることに気づくでしょう。

対立を煽るのではなく、
相互理解をしようと歩み寄ることが必要ではないですか。
大事なのは自分達家族の人権のみで、
「拉致問題は最大の人権侵害です。」と発言することが、
その他の人々の人権を度外視、切り捨てる発言であること、
人権に優劣・順位をつけることであることに気付くべきです。

在日の人達・韓国・北朝鮮をむやみに憎み、それを煽ることを叫ぶ、
歪んだおかしな方向へ突き進む拉致問題の運動は、
早急に軌道修正する時に来ているのではないでしょうか。

南北和解による東アジアの平和の構築は、誰にとっても望ましいことです。
だからこそ、TOP同士のやり取りが、やや行き詰まりをみせている現在、
「TOP会談だけではなく、
民間交流、NGO、各国における人権問題を解決しようとする動きこそが、
日本を含めた南北の和解へ向かうための、原動力となるべきなのだ」
という視点が必要となります。

何も南北和解は、金正恩委員長・文在寅大統領・トランプ大統領の
専売特許ではありません。
各国間の境界線上にいる「見捨てられた民」こそが、
東アジアの平和の構築の、もう一つの主役になるべきなのです。

そうして「見捨てられた民」に、今まで見捨ててきたことの赦しを乞い、
和解をし、改めて兄弟となることで、
「見捨てられた民」と私達は、
異なるアイデンティティを持ちながらも、
互いに「包摂された民」として、
共に生きることができるようになるのではないでしょうか?



特定失踪者家族藤田隆司氏への回答

未分類
01 /06 2019
特定失踪者家族藤田隆司氏への回答

1月5日に当ブログに
「続続 特定失踪者問題調査会という組織」という記事を掲載し、
ツイッター「拉致問題 憎しみを超えて」で告知しました。
すると、その告知ツイートに対して、特定失踪者家族の藤田隆司氏より、
繰り返しの返信を求める旨のコメントが入りました。

内容は以下です。
告知ツイート
ブログを更新しました。「続続 特定失踪者調査会という組織」
意図的に本質から話しを逸らしていることに気づいてください。

藤田隆司氏のコメント
①特定失踪者家族会ができたので、直接言って下さい。
 あなたは、一体何を憎んでいるのです?何を言いたいのですか?
 どうしたいのですか?このSNSに返信願います。

②あなたに、調査会以上のことができますか?

③ここまで言い切れる神経が、家族として理解できない。
 公開した以上、あなたの実名を公開し堂々と
 調査会・特定失踪者家族会と対峙すべきです。
 私の質問に、公開で必ず返信してください。

④質問を受け付けないなら、なぜこんな挑戦的な投稿をしたのですか?
 答えて下さい。

⑤ダイレクトメールができないようになっているのは、なぜですか?

⑥逃げないで下さいね。自分の投稿には責任を持って下さい。

基本的に当ブログは意見の発信が目的であり、
不特定多数の人と討論することを目的とはしていません。
しかし今回に限り、ブログ上でお答えしようと思います。
「SNSに返信を」ということですが、
私達がブログを発信の場にしているのは、
拉致問題についてある程度まとまった意見を述べるには、
短い文章しか載せられないツイッターは不適当との考えからのためであり、
そのため「公開の」ブログにてお答えさせて頂きます

最初に藤田氏の問いをまとめます。
①特定失踪者家族会ができたので、直接言って下さい。
②あなたは、一体何を憎んでいるのです?
 何を言いたいのですか?
 どうしたいのですか?
③あなたに、調査会以上のことができますか?
④ここまで言い切れる神経が、家族として理解できない。
⑤公開した以上、あなたの実名を公開し
 堂々と調査会・特定失踪者家族会と対峙すべきです。
⑥質問を受け付けないなら、なぜこんな挑戦的な投稿をしたのですか?
⑦ダイレクトメールができないようになっているのは、なぜですか?
⑧逃げないで下さいね。自分の投稿には責任を持って下さい。

それでは上から順にお答えさせて頂きます。

問①特定失踪者家族会ができたので、直接言って下さい。
⇒答① 
これが特定失踪者家族会宛の要請文書であれば、
特定失踪者家族会に直接提出するのが筋ですが、
この記事は要請文書ではないし、
そう思わせるような書き方もしておりません。
意見の発信が目的です。
家族の方々に呼びかける形の表現もありますが、
無理に聞かせる意図がないから直接提出していないのです。
あくまでも参考意見としてお読み下さい。
判断は読んだ人各々に委ねます。

問② あなたは、一体何を憎んでいるのです?
    何を言いたいのですか?
    どうしたいのですか?
⇒答②
人を憎み、それを煽動することは嫌悪し軽蔑します。
理由もなくその属性だけで人や物事を判断し
憎むようなことがないよう注意を払い、避けているつもりです。

言いたいことがあるから、ブログを作り、記事を載せています。
不特定多数の方々に、私達の言いたいことを知ってもらい、
その意見を基に拉致問題について自分で考えてほしいからです。
個々の人一人一人を説得するのが目的ではありませんので、
討論はできないようにしています。
拉致問題に関心がない人にも読んでもらえるよう、
できるだけ難解な表現、専門的な知識について触れることは避け、
分かりやすい表現を心がけております。
何が言いたいのか、どうしたいのか、
どう思っているのかについては、特別な勉強や解説がなくても、
本文を読めば分かるように配慮しております。
まずは本文をありのままにお読み下さい。
ブログ設立の趣旨についても一文を掲載しておりますので、
宜しければお読み下さい。
serenityprayer323.blog.fc2.com/blog-entry-46.html

問③ あなたに、調査会以上のことができますか?
⇒答③ 
当ブログの特定失踪者問題調査会についての、
一連の記事を読んで頂ければお分かりいただけると思いますが、
私達は調査会の存在・行動は、拉致問題解決に利するものではない
と考えております。
ですので、答えは「調査会以下のことはできない」です。
藤田氏が調査会に「何かをしてもらった・恩義を感じている」
と思われているのは藤田氏の自由な思いです。
しかし、視点を変えた私達から見ると、一利もないように見えています。
立場の違い、認識の相違は誰にでもあることです。

問④ ここまで言い切れる神経が、家族として理解できない。
⇒答④ 
家族の方は、家族にしか言えない思い・考えを発信して頂ければ
と思います。
しかし、私達には家族内に拉致被害者も特定失踪者もおりません。
そのため、家族の方とは違った視点からの意見を発信しております。
「拉致被害者救出のためにはどんなことでもする」のであれば、
必ず拉致被害者救出ができるマニュアルが存在しない以上、
さまざまな考え・方法について知る必要があると考えます。
拉致被害者は家族の人にとってかけがえのない家族です。
その救出について、家族の方がたとえ理解できないとしても、
自分の考えを発信する権利は、誰にでもあると考えますし、
必要なことだと思います。

問⑤ 公開した以上、あなたの実名を公開し
   堂々と調査会・特定失踪者家族会と対峙すべきです。
⇒答⑤
私達は現在、拉致問題にわずかにも関わる、
一切の役職についておりません。単なる個人です。
そして有名人でもなければ、ジャーナリストでもありません。
実名を公開することに何の意味もありませんし、
義務もありません。

問⑥ 質問を受け付けないなら、なぜこんな挑戦的な投稿をしたのですか?
⇒答⑥ 
私達は調査会や家族会のHPやブログに投稿した訳ではありません。
ですので、これは「挑戦的な投稿」にはあたりません。
もちろん調査会にとって、
挑戦的と見られるかもしれない意見を発信してはいますが、
何らかの権力を背景にして圧力を加えている訳ではありませんので、
質問を必ず受け付けないといけない理由はありません。

問⑦ ダイレクトメールができないようになっているのは、なぜですか?
⇒答⑦ 
答⑥と同様の理由からです。

問⑧ 逃げないで下さいね。自分の投稿には責任を持って下さい。
⇒答⑧
逃げる気はありません。
今後も自分の意見を、枉げることなく発信していくつもりです。
それを不愉快だと思う人ばかりになり、
誰もこのブログを訪れなくなれば、それは私達の責任です。
しかしそのような事態がたとえ想定されても、
自分の責任において、自分の意見を発信していく所存です。


藤田氏の問いに対しては、全てお答えしました。
藤田氏を説得し、自分達の考えを強要する気は全くありませんので、
この件に関して、今後扱う予定はありません。
又、Twitter上ではなく、ブログで回答したのは、
冒頭にある通り、短文では無理と判断したからです。
藤田氏と私達とでは、考え方、視点が全く異なり
今現在相互理解できるとは考えておりません。
感情的な応酬でタイムラインが埋まるのを避ける為でもあります。

またこれから、個々のコメントにお答えする予定もありません。
ご了承下さい。

拉致問題とアイデンティティの危機 2

未分類
12 /16 2018
拉致問題とアイデンティティの危機 2

②日本国民
拉致被害者家族については、ひょっとすると、特別扱いしてもらえるなら、
アイデンティティなどいらない、という刹那的な人もいるのかもしれません。
そういう人にとっては、私達の意見などうるさいだけでしょう。

ここで本題に入りたいと思います。
本当の問題は、拉致被害者家族が作り出す雰囲気にのせられて、
さらには共感を通り越して、同調までさせられて
アイデンティティをゆがめられている
私達日本国民に起こっている危機なのです。

それが「誤った被害者意識」です。

政府は拉致問題の啓蒙活動をさかんに続けますが、
その際に取り上げられるのは横田めぐみさんのことばかりです。
それも拉致された当時の13歳のめぐみさんばかり。
「めぐみさんは生きている」とさんざん言っている割には、
13歳以後のめぐみさんなど存在しないかのようです。
13歳以降の写真もあり、
お子さんのウンギョンさん、
さらにはウンギョンさんのお子さん(めぐみさんの孫)が
いるにも関わらずです。
「何も悪いことをしていない」「可愛い」「被害者の」
めぐみさんのイメージだけがひたすら流されています。
そして共感が求められます。
まるで私達日本人全体が
「何も悪いことをしていない」「可愛い=弱い」「被害者」
であるかのように。

そういえば、最近蓮池薫さん・地村保志さん・曽我ひとみさんが、
よく表にでて、署名活動をしたり、講演をしたり、
学校で話をしたりしています。
私達が救う会で活動していた時、はっきり言えば、
第二次安倍政権以前は考えられなかったことです。
日本に帰国し、平穏な生活になじもうとしていた彼らが、
安倍政権になってから、
いたるところで「被害者」であることを強調するようになっている。
これに何らかの意図を感じざるを得ません。
前にも触れましたが、
政府がやたらと学校教育で拉致教育をさせたがっているのも気になります。

こうして私達日本国民全体に
「日本人は弱い被害者。北朝鮮は強い加害者。」
「愛する家族を守るために、(今以上に)強くならなければならない」
という、拉致問題にかこつけた刷り込みばかりが行われます。

それは本当でしょうか?
それが本当の日本人の姿でしょうか?

拉致は日本人全体の悲劇?
そんなわけがありません。
それならば日本国内で起こる誘拐事件も行方不明事件も
全て日本人全体の悲劇です。

なぜ拉致だけが特別扱いされなければならないのでしょう?
他の事件と同じように、日本政府がその責任において、
粛々と解決への努力をすべきものではないですか?
成果がでないのは、全面的に日本政府の責任です。
日本国民にその責任を押し付けないで欲しいものです。
そもそも日本国民は今までに1000万筆以上の署名をして、
多額の寄付を行い、
大勢の支援者が何十年も拉致被害者家族を支えて来たではありませんか。
これ以上何をせよというのでしょうか?

一方以下の記事に日本政府の他に、
マスコミや国民の責任を問う家族の声があります。
blog.livedoor.jp/taisa1978/archives/1964799.html
日本人全体の悲劇。
盛り上がりに欠けたマスコミや国民の責任。
というのならば、「フクシマ」の方が遥かにふさわしいでしょう。
文字通り現在進行形の悲劇「フクシマ」を忘れて、
芸能人の結婚・離婚の話などに夢中になっている
国民・マスコミは責められてしかるべきです。
しかしそういう視点はありません。

「フクシマ」に限らず、拉致問題を遥かにしのぐ悲劇で、
現在の日本は溢れんばかりです。
しかしそのような、ありのままの現実を見えないようにするために、
ひたすら拉致問題のキャンペーンが行われます。

そして隠されている現実、ゆがめられた自画像はなんでしょうか。
すでに軍事大国である日本の姿は隠され、北朝鮮の脅威に対抗するため、
もっともっと高価な兵器
(しかも欲しい・必要な武器ではなく、アメリカが売りたい武器)を
アメリカから購入しないといけない、と叫ばれています。
差別している日本人の醜い姿は隠され、
拉致をした北朝鮮に少しでも関わりがある人は差別されて当然だ、
と叫ばれています。
拉致の当事者北朝鮮は当然批判はされて仕方ないでしょうが、
それをいくら言っても解決にはつながりません。
ただ、憎悪を煽るだけになります。
北朝鮮からすれば、
では植民地支配についての謝罪はどうなのだと切り返すだけで、
全く不毛なやり取りが繰り返されるだけです。
再度言いますが、北朝鮮を批判するだけでは成果、解決にはつながりません。

なによりも、「私達は被害者だ」という倒錯が、日本に蔓延しています。

例えば、北朝鮮側から、日本の植民地支配の責任を問う声がでると、
それへの反応はほとんど
「拉致しておきながら、盗人猛々しい!」というものです。
ですが、本当にそうでしょうか?
北朝鮮が日本に対して植民地支配の責任を問うのは、
むしろ当たり前の話ではないですか。

極論を言っているのではありません。
かつて、小泉総理と金正日委員長との間で結ばれ、
現在宙に浮いている日朝ピョンヤン宣言には以下の記述があります。
「日本側は、過去の植民地支配によって、
朝鮮の人々に多大の損害と苦痛を与えたという
歴史の事実を謙虚に受け止め、
痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明した。」

「歴史の事実」は拉致問題があったからといって変わりません。
拉致問題は拉致問題。
日本の植民地支配は日本の植民地支配です。
それぞれ別々のものです。
どちらかが相殺されて消し去られるべきものでは全くありません。

それなのに今日本では、
ひたすら拉致問題のイメージを「日本政府が」肥大化させ、
日本の植民地支配の責任を相殺させ、消し去ろうとしています。
これは歴史の事実を謙虚に受け止めようという態度ではありません。

ここで日本人全体のアイデンティティの危機について語ります。
日本人は歴史上何度か過ちをおかしています。
しかしそれは民族の誇りのために、なかったことにすべきことでしょうか?
日本人は過ちをおかさない優秀・高潔な民族である、
という誇りを子ども達に持たせるべきなのでしょうか?

この世界を見渡しても、無謬な国家など存在しません。
どこの国も多かれ少なかれ、過ちを犯した歴史の上にあるのです。

逆に、過ちも含めて、私達日本人なのではないですか?
私達は人間ですから過ちをおかします。
過ちをおかさない人間などいないし、
「私は常に正しい」という人間は軽蔑されてしかるべきです。
過去の過ちも含めて、その人自身です。その国自身です。
その人のアイデンティティです。
これは何も、だから過ちを大目に見ろ、という意味ではもちろんありません。
過去の過ちと正面から向き合い、乗り越えてこそ、
誇りをもつ価値のある人間、ひいては国家である、という意味です。
そうではありませんか?

日本のかけがえのない自らの一部である、
過去の過ちと向き合うことなく、乗り越えることもなく、
拉致問題のイメージをひたすら肥大させて過ちを消し去ろうとしている、
日本政府の態度。
私達日本人は、在日コリアンとは別な意味で
アイデンティティを奪われようとしているのです。
そういう意味では日本国民は被害者です。
加害者はもちろん北朝鮮ではありません。
日本政府です。

これはかつての
「唯一の万世一系の皇統をもつ世界に冠たる日本」
「無敵の皇軍」「暴支膺懲」「鬼畜米英」
「天皇の赤子」「大和魂」「大和撫子」「玉砕」
などと現実にそぐわない偽のアイデンティティに酔いしれ、
破滅したかつての日本の姿ではないでしょうか?
その時破滅したのは日本国民であり、日本政府ではありません。
日本政府はそっくりそのまま生き残りました。

その時の日本政府の重要人物の孫にあたる人々が、今再び
「日本は可哀想な被害者」「憲法9条の縛りのある日本は弱い」
「自衛隊は軍事的脅威ではない」
「北朝鮮をはじめ、軍事強国に囲まれている」
「日本を守れるのは日米軍事同盟・アメリカ製の高価な兵器だけ」
「日本の戦争責任など、もう解決済み」
そして「拉致問題を解決できるのは安倍総理だけ」
などと偽のアイデンティティで日本国民を篭絡しようとしています。

過去の過ちと向き合うより、
「可哀想な被害者」扱いされる方が心地いいに決まっています。
しかしその一時的な心地よさの代償は恐るべきものです。
かつて「南京陥落」「シンガポール陥落」で
提灯行列をした人々は、その後どうなったでしょうか。
うそつきかがみではなく、歴史という鏡をみれば一目瞭然です。

アイデンティティの危機は、陥らない方がよい、
というような道徳上の問題ではありません。
私達が生きるか死ぬかの問題なのです。

最後に、いやなたとえになりますが、
ヤギと羊のたとえ話をしたいと思います。
ある遊牧民は、羊を放牧する時に、ヤギを数匹まぜます。
生存本能の乏しい羊は、その場所の草を全て食い尽くしても、
自分から動こうとはしないのだそうです。
その時、羊より生存本能のあるヤギが、
別な草のある場所に移動を始めると、
羊は、ヤギについて行くのだそうです。

羊が日本国民だと言いたくはありません。
そして日本政府を邪悪な羊飼い、
拉致被害者家族をヤギになぞらえる気はありません。
ただ言いたいのは、
私達は羊ではない。
人間である以上、生き残るための場所は自分達自身で見つける。
という事です。

羊と人間を分けるものはなんでしょう?
その大きな一つは、自分をかけがえのない自分自身であらしめる、
アイデンティティではないでしょうか。
そして、過去の自分の一部である「過ち」を鏡にしてこそ、
私達人間は生き残るための、
正しい道を選ぶことができるのではないでしょうか。

拉致問題とアイデンティティの危機 1

未分類
12 /16 2018
拉致問題とアイデンティティの危機 1

先日たまたま『解放の神学』(梶原寿著)という本を読んでいました。
解放の神学とは、ほとんどの人にはなじみのない言葉だと思いますが、
「被抑圧、被差別人民の解放をキリスト教の福音の本質として説く
現代キリスト教神学の一潮流」(ブリタニカ国際大百科事典より)
というもので、拉致問題とは直接の関係はありません。
この本では特に、アメリカの代表的黒人解放の神学者
ジェイムズ・ハル・コーンに焦点があてられていました。

私は、この本で引用されている、コーン氏の記述を読んで、
「そうだ。拉致問題とアイデンティティの問題についての記事を書こう」
と思いました。
そう考えた該当の記述を、やや長くなりますが、以下に引用します。
この記述は、1975年5月に
「民衆の解放のために闘う教会」の主題の下に開催された、
在日大韓キリスト教会の研修会に、
コーン氏が講師として招かれた際の経験がもととなっています。

 在日韓国人キリスト者たちと共に過ごした経験の中から、
私は私が黒人について、またイエスの福音について語ったことは、
在日韓国人の状況の中に多くの平行関係をもっていることを
理解するようになった。
黒人が白人から抑圧されてきたと同じように、
在日韓国人は日本人から抑圧されてきたのである。
また、黒人が彼らの解放の闘いの中で自由についての歌をうたい、
説教をしたのと同じようなことを、在日韓国人もしていたのである。
そこには多くの相違点も存在するが、
在日韓国人と黒人の諸経験の間にある類似点は驚くべきものである。
私が在日韓国人に対して大変な親近感をいだいたのは、そのためであった。
・・・
日本滞在中、私は黒人神学に対するアメリカ白人と
日本人の反応の類似性に注目せざるをえなかった。
その反応には敵意から無関心までいろいろあるが、
どちらの場合にも、黒人神学のメッセージの真理を理解しようとする
真剣な試みが見られないのである。
私は低調な日本人の無関心は、
在日韓国人や彼ら自身の共同体内の他の犠牲者たちに比べて、
彼らが力ある者の立場にあることに起因するものであると、
結論づけないわけにはいかなかった。

この中で、特に「力ある者としての日本人(=差別者としての日本人)」
についての客観的な視点に衝撃を受けたのです。
なぜなら大部分の日本人は、日本人を「力ある者」とは考えていないからです。
そうではありませんか?
むしろ何となく「力なき者=被害者」と考えていないでしょうか?

これまで本ブログの
「拉致問題と差別」「続拉致問題と差別~朝鮮学校無償化と私達」で、
拉致問題を口実として、差別する日本人について書いてきました。
ところで差別する際、
「自分達は力がある。だから力のない在日コリアンの人々を差別するのだ」
という自覚をもっている人は、まずいないと思います。
無自覚で差別しているのです。

なぜ無自覚で差別できるのか?
その背景は、自らを「力なき者=被害者」
とする認識にあると、私は考えます。
どう見ても大きな力を持っているのに、自分を弱者と思い込み、
実際なんの力ももっていない相手を
「力ある者=加害者」だと決めつけて、差別する。

普通そのようなことがあれば、周りの人が、
そのひとりよがりを指摘し、止めようとするはずです。
しかし拉致問題においては、
こともあろうに、日本政府がそれにお墨付きを与え、
積極的に後押ししています。(前川喜平氏の言うところの「官製ヘイト」)
そうして差別は国ぐるみで暴走を続けます。

表題で言うアイデンティティの危機とは、
朝鮮学校無償化を止められ、
アイデンティティ教育の拠点を脅かされている
在日コリアンのことを指しているのではありません。
彼らはどうあろうと、
自分達のルーツを大事にしようという姿勢を崩すことはありません。

ニセモノのルーツを合成甘味料でくるんで与えられ、
うそつきかがみ(ドラえもんの秘密道具の一つ)に写った自らの姿を
真実だと思い込み、差別する快感に酔いしれながら、
破滅へとまっしぐらに向かっている、
私達日本人のアイデンティティの危機を問題にしているのです。
 ※うそつきかがみとは?https://dic.pixiv.net/a/うそつきかがみ

それではまず、
拉致被害者家族のアイデンティティの危機から始めたいと思います。

① 拉致被害者家族
1、 拉致貴族と化した拉致被害者家族
まずは私達の救う会時代の経験から話を進めます。

かつて、拉致問題に関する院内集会を、
参議院議員会館で開催したことがあります。
議員会館は平日しか使えませんので、
当然私は有給休暇をとって参加しました。
多くの議員の方や、知識人、支援者の人に集まってもらい、
それぞれ発表をして頂きました。

ところで、集会も後半にさしかかりましたが、
発表を行うはずの拉致被害者家族がいつまでたっても姿を現しません。
※ここでは名前を明らかにはしませんが、
拉致問題における代表的な人物であるとだけ言っておきます。
(横田夫妻ではありません)
時間的に限界に差し掛かったので、連絡を取ってもらったのですが、
答えは、「用事ができたので行けなくなった」でした。

なんとかその場はしのぎましたが、随分と凄い話ですよね。
拉致問題の集会に拉致被害者家族「だけ」参加しない!
それもドタキャンですらない。こちらから連絡しなければ知らん顔。
特に謝罪もありませんでした。
とても自らの家族を取り戻そうという意思があるようには思えません。
いわゆる具体的な拉致被害者の家族ではなく、
「ラチヒガイシャカゾク」という特権階級のようです。

同じ人物に関わる話ですが、以下のようなこともありました。
拉致の国民集会の日、私達は会場前で拉致問題の啓発チラシを配っていました。
すると、かの拉致被害者家族が現れ、
今まで大臣たちと食事をしていたところだ、と言うのです。

これも凄い話です。
私達支援者は、国民みんなの力を併せて、
日本政府に拉致問題解決を求める圧力をかけるために、
日夜努力をしていたのです。
それなのに当の拉致被害者家族が、
圧力をかけるべき日本政府の代表と、仲良くゴハンを食べている!

私達支援者がどうやっても会うことのできない大臣と、
せっかく会う機会があるのに、
「飯など食っている場合じゃない!」と、
拉致問題解決のための行動を迫った訳では全くなく、
その機会を自慢の種にしかしていない。

さらに、よく考えてみれば、被害者救出を急いで欲しいと願う家族が
何ら成果を出していない政府要人と食事をする。
これでは、批判はできないでしょう。
批判をする相手と仲良く食事をする機会を何度も持てば、
人ですから情が湧きます。
更には自分を政府要人と同レベルの存在と思いこみます。
優しい言葉をかけ、成果の出ないことを謝罪してくれる人に対して
批判をすることはできなくなるのではありませんか。
本来なら、食事をするほど仲良くなってはいけないのです。
一線を引いて、それより先へは行ってはならないと
自制を効かせなくてはならないのではないでしょうか。

恨みつらみを訴えるため、また特定の拉致被害者家族を誹謗するため、
このような話をしているのではありません。
このような勘違いをおこさせる、政府による拉致被害者家族の優遇政策は、
家族が拉致されて悲嘆に暮れている家族を、
せめて特権階級扱いしてあげることで、慰めてあげようという親心(?)
で行われているのではないということです。
これは政府の望む方向に走らせるためのニンジンに過ぎないのです。
そういう意味では、政府は拉致被害者家族を持ち上げているようで、
馬扱いしていると言っても過言ではありません。

 2.自分の意見を持たない(持てない)拉致被害者家族
前回、「全拉致被害者の即時一括帰国の欺瞞」という記事を書きました。
その中で、「全拉致被害者の即時一括帰国」
という目標に至る変遷について触れましたが、
ここで問題にしたいのは、
その変遷の際の家族たちの異様な豹変ぶりです。

政府の意向を受けた(としか思えない)救う会会長の西岡氏が何か言うと、
少なくとも家族会に所属している家族は、全員右へならえをします。
(そういえば救う会時代、何か疑問点を指摘すると、すぐに代表から
「それば分派行為だ。北朝鮮を利する行為だ。」
と言われたことを思い出します)
今まで自分が言ってきたこと、やってきたことなど、平気で捨て去ります。
いや内心は平気ではないかもしれませんが、
あまり苦渋の選択をしているようには見えません。

特定失踪者家族に至っては、
今までさんざん拉致被害者認定を求めて活動しておきながら、
ある日突然、特定失踪者問題調査会の荒木会長が
「これからは認定を求めない」と言い出したとたんに
家族も「私達は認定を求めない」です。
実は荒木氏が、集まった特定失踪者家族の前でこの発表をした現場に、
私もいました。
唯々諾々と従う家族たち(私の知り合いも大勢いました)の姿には、
正直悪夢をみる思いでした。
ちなみにこの方針の変換で、
調査会内では、新方針についていけない幹部が何人かやめています。
しかし家族でまともに反発した人は、誰もいません。

私も拉致問題に関わって長いので、ある程度は慣れてきてはいますが、
さすがに腹にすえかねたのが、このブログでも何度も問題にした、
「家族会は、一刻も早く会いたい気持ちを抑えて、冷静な対応を求めています」
「慎重に、確実にやってほしい。しかし急いでほしい。期限は切りません。」
などの、忖度発言です。

まさにこれは家族を拉致されて悲嘆に暮れている家族の発言ではなく、
「ラチヒガイシャカゾク」という階級の、安倍総理の藩屏としての発言です。
異論を唱える家族は一人もいません。
過去の自分を平気で捨て去り、集団の意見にそのたびに絶対服従。
そこに自我はありません。

彼らは特別扱いされることで、自分のアイデンティティを失ったのです。
たとえて言うなら、A山A太郎という1人の人ではなく、
「拉致被害者A山B子の父(兄・弟等)」という肩書きが
A山A太郎という人物を乗っ取ったと言っても良いでしょう。
「拉致被害者A山B子の父」という肩書きが彼自身となり、
A山A太郎が持つ、常識的な一社会人、一家庭人であるというアイデンティを
捨て去ったのです。

最近は拉致の集会に行っても、拉致被害者の話など全く語られず、
ひたすら「アメリカ」「トランプ大統領」「ボルトン」
「金正恩」「安倍総理」「核ミサイル」のオンパレードです。
それも安倍総理とその周辺の人たちの妄想を、ただ共有しているだけ。

これが拉致被害者家族のアイデンティティの危機です。


北朝鮮はなぜ日本人を拉致したのか?

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09 /08 2018
北朝鮮はなぜ日本人を拉致したのか?

今年も残すところあと4カ月になりました。
救う会の今年のスローガンは、
「めぐみさんたちは生きている!
拉致問題を最優先として今年中に全被害者を救え!」です。
全拉致被害者を今年中に救出する見込みはあるのでしょうか?
あるようにはみえません。

それどころか、今まで何回か問題視した、
9月23日の国民大集会のチラシですが、改めて見てみると、
「今年中に救出を」とはどこにも書かれていません。
代わりに「この問題は決してあせらずに着実に、
きちんと事が進むようにしてほしい」と書かれています。
家族がそう言うならそれでいいのではないか、
と大部分の人は思う事でしょう。
もう年末の拉致イベントのコーラスの練習を始めている
という話も聞きます。
「さあ来年来年」という本音が透けて見える気がします。

しかしそんなにのんきでいて、いいのでしょうか?
「いつでもいいよという意味ではない」にせよ、
焦らずにいていいのでしょうか?
そもそも家族が「いつでもいい」と言えば、
いつまでも続けられる運動なのでしょうか?

実は今、大変焦らないといけない時期なのです。
一分一秒が無駄にできない状況なのです。
それについて表題の
「北朝鮮はなぜ日本人を拉致したのか?」
から説明したいと思います。

何か問題を解決したい時には必ず、なぜこの問題がおこったのか?
という原因・動機を問わなければなりません。
その意味で「北朝鮮はなぜ日本人を拉致したのか?」という問いは、
すでに語り尽くされていなければならないはずですが、
実はそうなっていません。

拉致問題対策本部のHPを見てみましょう。
北朝鮮が日本人を拉致した理由について
以下のように書かれています。
「北朝鮮は、なぜ日本人を拉致したのでしょうか。
真相はわかっていませんが、
これについては、次のような説があります。
すなわち、北朝鮮は、朝鮮戦争の休戦後も、
韓国を社会主義化して朝鮮半島を統一しようとしてきました。
しかし、当時、韓国人をよそおって
北朝鮮から韓国にスパイを送り込むことは難しかったので、
日本人をよそおって韓国にスパイを送り込むという方法が考えられました。
そこで、日本人を北朝鮮に連れ去った上で、
北朝鮮のスパイをその日本人になりすまさせたり、
その日本人を北朝鮮のスパイに
日本の習慣や日本語を教える先生にしたりしようとして、
日本人を拉致したというのです。」
極めて教科書的な、皮肉抜きで、真っ当な記述です。

それに比べて、救う会会長の西岡力氏の記述だと、
極めて断定的になります。
「「救う会」が北朝鮮内部に繋がる情報源から入手したところによると、
日本人拉致は1970年代初め、康寛周が主導して始まった。
当初は主体思想に洗脳して工作員として使うことが目的だったという。」
(『横田めぐみさんたちを取り戻すのは今しかない』p.180)

特定失踪者問題調査会代表の荒木和博氏になると、
「拉致の目的は多岐にわたる」として6つもあげています。
① 技術の獲得 ②工作員として使う ③日本人化教育の教官として使う
④拉致した人の身分を手に入れる=背乗り 
⑤拉致被害者の結婚相手 ⑥証拠品としての拉致、遭遇拉致
(『日本が拉致問題を解決できない本当の理由』p84~95)
・・・たくさん挙げていますが、
基本的に「工作員として使う」のバリエーションです。

つまり日本人の拉致問題の専門家は、
北朝鮮はなぜ日本人を拉致したのか?について、
工作員として使うため、と答えているのです。

それに対して異を唱えようとは思いません。
おそらくその通りなのでしょう。

しかし拉致の原因について「工作員として使うため」で
考察を止めていいのでしょうか?
それはまるで交通事故の原因について、
「居眠り運転のせいだ」「わき見運転のせいだ」と言い、
だから交通事故をなくすためには
「居眠り・わき見運転をしなければいい」と
言っているようなものではないでしょうか?
本気で交通事故をなくそうとするのなら、
「なぜ居眠り・わき見運転をしたのか?
どうすれば居眠り・わき見運転をする原因を除去することができるのか?」
まで考え、対策を講じなければなりません。

その意味で、西岡・荒木両氏の考察は
極めて皮相なものであると言わなければなりません。
わざとそうしているのかもしれませんが・・・

もう一段階考察を進めてみましょう。
北朝鮮はなぜ日本人を、工作員として使うために拉致したのでしょうか?
それは上の拉致問題対策本部のHPに書かれています。
「朝鮮戦争の休戦後も、
韓国を社会主義化して朝鮮半島を統一しようとしてきました。」
問題の核心は日本ではないのです。
核心は、朝鮮戦争休戦後の緊迫した南北関係にあるのです。

拉致の動機・原因の根本は南北対立である。
そうすると、二度と拉致が起こらないようにするために、
まずやらないといけないことは明白です。
韓国・アメリカと北朝鮮の間の緊張の融和です。

そしてこれについては現在、
安倍総理の余りにも露骨な妨害にも関わらず、
韓国・アメリカ・北朝鮮の間で、
一歩後退二歩前進ながらも、徐々に進んでいっています。
二度と拉致がおこらない世の中に向かっているのですから、
純粋に喜ばしいことです。

問題は現在拉致されている日本人の拉致被害者のことです。
そして日本にとっての拉致問題の解決のことです。

朝鮮戦争終結宣言について、いろいろ取り沙汰されています。
いつ行われるのか。そもそも本当に行われるのか。
私達が確実に知ることは困難です。
しかし昨年よりはるかに現実味を帯びてきていることは間違いありません。
ひょっとすると数か月後には達成されるかもしれません。

その時に拉致問題はどうなるのでしょうか?
どうにもならないのではないですか。
つい先日まで、不俱戴天の仇のようだった韓国・アメリカ・北朝鮮が、
日本とは何の関係もないところで、朝鮮戦争終結宣言を行った場合、
今後一体どこの「国際社会」が拉致問題をとりあげるでしょうか、
関心を示すでしょうか。

その時、拉致問題は完全に日本・北朝鮮間「だけの」問題になります。
北朝鮮が「解決済み」と言えば、それで本当におしまいです。
日本にできることは何一つありません。
なんという情けない幕引き!

もちろん絶対そうなる訳ではありません。
しかしそうなる可能性は非常に高いと言わざるを得ません。

そのような誰も望まないみじめな結末を避けるために、
どうすればよいのか?
韓米と北朝鮮の間の融和ムードをぶち壊し、
元のような敵対関係に戻らせる!?
安倍総理やその周辺の人たちはそれがお望みのようですね。
それは国際社会を敵に回すものであり、
そもそも拉致が二度と起こらない世界を・・
という方針に真っ向から対立する、最悪の選択です。

もう答えは出ているのです。
日本が、米韓と北朝鮮の融和を率先してアシストすること。
そしてその道筋をつけることに積極的に取り組むことで、
その過程の中に「拉致問題の解決」を、
今までの南北間の対立軸の
解決しなければならない問題の「一つ」として組み込む。
それが最も現実的な選択肢です。
しかし現在の安倍政権の下では、全く実現不可能な選択です。

家族会・救う会から安倍総理への批判が出ることは、
ほぼ絶対にありえないでしょう。
なぜなら彼らはお仲間だからです。
家族会や救う会の構成員に
「目を覚まして」などと言っても無駄なことは、
そのど真ん中にいた私達が保証します。

大事なのは外部からの批判です。
拉致被害者家族でもブルーリボンバッジをつけた人たちでもない、
世界平和を望む私達が、あるべき拉致問題の解決を訴え、
悪辣な拉致問題の政治利用を批判しなければならないのです。
この余りにもどちらを進むべきか明白な選択肢を前にして。

NHKスペシャル ノモンハン 責任なき戦い

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08 /18 2018
大日本帝国陸軍の「伝統芸」はリベラルにも受け継がれている

リベラルの人たちは、帝国陸軍の愚行といえば、
安倍政権になぞらえ批判することと思います。
もちろんその行動自体は間違っていません。
そこを敢えてこう言いたいと思います。
「大日本帝国陸軍の「伝統芸」はリベラルにも受け継がれている」

このブログでは再三、
リベラルの人に拉致問題を取り上げてほしい、
声をあげてほしい、と訴えています。
それでも批判をしない訳にはいきません。

人は完全ではありません。
安倍政権の最大の問題点は、
批判を一切受け付けないことです。
それに対抗するリベラルの人々は、
批判に耳を傾け、身を正すことのできる存在であってほしいと思います。
そうでなければ安倍政権に勝つことは不可能だからです。

15日のNHKスペシャル『ノモンハン 責任なき戦い』は秀逸でした。
昨年のNHKスペシャル『戦慄の記録 インパール』も
相当力の入った番組であったと思いますが、
今年も見ごたえのあるものでした。

双方に共通点として見出させるのは、
無責任、責任転嫁、兵の命は紙屑同然、
軍上層部の独断専行、情実人事でしょうか。
補給や装備の貧弱さを
「精神」で補おうとするところも一貫しています。
現実を冷静に分析し、それを進言する者がいても
楽観論、見たいものを見るだけという妄想論で押し切ってしまう。
これらは、大日本帝国陸軍の
「伝統芸」とでもいえるのではないかと思います。
ノモンハンもインパールも
その「伝統芸」が炸裂していました。

これらの「伝統芸」は今でも受け継がれているようですが、
もう1つ現在でも生き続けるモノがあります。
ノモンハン事件の主役ともいえる辻政信少佐の
以下の言葉に代表されるものです。
「前線で戦った将兵は互角の戦いであり、むしろ勝っていた。」
「戦争は負けたと感じたものが、負けたのである。」

2年前の参議院選挙、
野党共闘をしながら大敗した時の
中野晃一上智大学教授の著書にありました。
「24歳の青年は、「1年前、悔しい思いもしましたが、
参議院選挙で野党が共闘して、成果も出したし、
さらに共闘をすすめ衆議員選挙でも勝って欲しい。
(略)」と希望を語ってくれました」
『つながり、変える 私たちの立憲政治』(中野晃一 2016、p3)
「私の実感からするとやれることはやったし、
第1幕を開けるという意味では、
成果があった選挙ではあると思います。」(同、p12) 
大変好意的に先の参院選を評価されています。

しかし、私はこの箇所を読んだとき、
これでは次回もその次もダメだろうと確信したものです。
政権選択選挙ではない参院選で
過半数~2/3議席を取れなかったという結果は
完敗、敗北なのです。
なぜ、それを認めず、反省、総括をしないのか?
それをせず、「勝った・成果があった」と何故言えるのだろうか?
民主党政権から自民党へ政権が変わり、その後負け続けている。
何故、民主党政権が国民の期待を担えなかったのか、
それどころか、殆ど独裁と化した安倍政権が支持され続けるのか?
野党支持率がトリプル・スコアで低迷を続けるのか?
それらを反省、総括、分析をせずに、
その場しのぎで来ているからではないのか?!
自分たちに都合の良い「考え方」だけしか見ていないからではないのか?
そう思う訳です。

2009年、「一度やらせてみてください!」
という民主党鳩山代表(当時)の
言葉に期待、希望を託して民主党政権を誕生させた国民が
その3年後、大きな失望と裏切られたという気持ちを持って
安倍自民党を支持したのです。
その時の国民の思いは、それから5年間続いているのです。
高まってこそすれ、薄れてはいません。

民主党はその後、低迷し、名前が無くなり、分裂をしました。
2012年の衆議員選挙で負けた後、
反省、敗北の分析、国民への謝罪はしましたか?
拙い政権運営で、国民の期待を裏切り、混乱を招いたことを
総括し、改善すべきところを改善し、出直せたのでしょうか?
国民がそれを感じることができていないから、
未だに野党、リベラルを信用できない
と思っているのではありませんか。

旧陸軍の情実人事は安倍政権のお友達優遇、
無責任体質は、部下に責任転嫁、
国民の生活、命など何とも思わない、
それらは確かに安倍政権に受け継がれているものです。
しかし、リベラル陣営はいかがですか?
敗北を認めず、勝った・成果があったと強弁、
反省、分析をせず、その場しのぎ、
現状分析から見えるものを無視した現実度外視の楽観論、
「伝統芸」はリベラルにも受け継がれているのですよ。
その自覚は無いのでしょうけど。
自覚が無いから、反省もせず、
国民の支持を取り付けられないのです。

モリカケを何故、攻めきれなかったのか?
国民は政府の説明に納得していないにも関わらず、
野党に期待もしていない。
リベラル陣営の「お仲間」だけに語っているからではないのですか?
「正しい、真っ当なのは私たちだ。
正しいことを語っていれば、いつか判って貰える。」と
傲慢にも思いこみ、
判り易く国民に届くように語ることを怠りませんでしたか?
「安倍さんは強引で嫌だけれど、野党も信用できない。」
という国民の声は届いているのですか?

拉致問題も同様です。
よく家族会や安倍応援団は言います。
「旧社会党の土井たか子委員長は
北朝鮮にはパイプがあると言いながら拉致問題を放置した。」
「北朝鮮を地上の楽園と讃え、拉致などでっち上げだと
取り合うことすらしなかった。」
だから、拉致問題に取り組めないのですか?
今さら、声を挙げることすらできないのですか?
過去の不注意な発言・姿勢については謝罪し、
今から、取り組めばよいではないですか?
何故しないのです?プライドが許しませんか?
なぜ、「拉致被害者奪還に自衛隊を使え」
「憲法第九条があるせいで、拉致されたのだ」
という声に反論しないのですか?

国民を向いて政治をしていないのは、
自民党だけではありません。野党も同様です。
お仲間の国会前に集まる
既存のリベラルな人たちだけに向けて
語っているから届かないのです。

7月19日の国会前で話を聞いていると、
ある弁士はこう言っていました。
「なぜ安倍政権は倒れないのでしょうね?」
人前で話す時は、その前に理由を充分考えるべきです。
そうすれば、
安倍政権を倒すことができない自分達にも
問題があることに気づくことでしょう。

そしてそのさらに離れた所にいる、
声も出せない人たちに向けて語らなければ。
「お仲間」と「その他≒生活に忙殺されて声も出せない人たち」
に分けていませんか?
声を出せないから、現状に満足しているのではありません。
そうした人たちを見捨てたり、排除しないでください。

負けたなら、その原因を洗い出し、対策を練り、次に勝てばいい。
そのためにはまず負けたことを認めなければなりません。
このブログの名にもなっているラインホルド・ニーバーは、
「わたしは自ら省みて、なんらやましいことはないが、
それで義とされているわけではない。
わたしをさばくかたは、主である」
(第一コリント四・四)というパウロの戒めを片時も忘れなかったそうです。
その厳しい自己反省の姿勢が「ニーバーの祈り」に結実しています。
私たちもそうありたいと考えています。

自分の欠点と向き合い反省しましょう。
安倍政権の人々のようにならないためにも。

Serenity Prayer

某県「救う会」(北朝鮮に拉致された日本人を救出する〇〇の会)元幹事。
脱退後に意見の対立から除名されたらしい。(正式な通告はなかった)
ウヨク的思考を経て中立に物事を見て、判断し、発言する方向へ変わる。
中立の立場から今の拉致問題のあり方に疑問を持つ。
拉致問題に限らず、考え方はヒューマニズムに立つ。